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本当の自分を知るために(ルカによる福音書1章46~56節)【週報巻頭言】2024年12月29日

マリアの賛歌に「その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます」(ルカ1章49、50節)とありました。ここで使われている「畏れ」とは、恐怖の恐れではありません。畏怖とか畏敬という時に使われる畏れです。私たちが、神さまを畏れるというのは、神さまから裁かれるのではないか、と恐れることではありません。神さまは私たちをお造りになったお方です。私たちを愛し、私たちを生かしておられるお方です。そのお方を感謝し、喜ぶこと、それが、神さまを畏れるということです。

「主を畏れる者」。その反対のことが、51節に書かれています。「思い上がる者」です。口語訳聖書では、「心の思いのおごり高ぶる者」となっていました。私たちが神さまに出会い、神さまという方がどんなお方であるか知ると、私たちは神さまを畏れるようになります。マリアの賛歌の最初にありましたように、「わたしの魂は主をあがめ」。神さまをあがめる。神さまが私たちの心の中心に、人生の中心になっていきます。

しかし、私たちが神さまを無視したり、離れたりすると、私たちは、神さまの愛を忘れてしまうのです。神さまに対する感謝、喜びが無くなり、その結果、私たちの心は思い上がってしまう、おごり高ぶってしまうのです。放蕩息子の譬え話(ルカ15章11~32節)は、皆さんよくご存じだと思います。父親から離れ、放蕩三昧の生活をした息子が父親のもとに立ち返るという話です。この話は、神さまと私たち人間の関係を示している話ですが、息子が父親のもとに立ち返る時、息子は「我に返った」(ルカ15章17節)と書いてあります。神さまから離れている時というのは、本当の自分を見失っている状態なのです。本当の自分とは、神さまに愛されている自分であり、互いに愛し合って生きる自分です。ところが、神さまの愛を忘れ、自分を見失ってしまう。神さまは、そういう私たちのために、私たちが神さまのもとに立ち返ることができるように、ご自分のみ子であるイエス・キリストをお送りくださったのです。

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