行いと真実をもって愛し合おう ヨハネの手紙Ⅰ 3章11~18節 2025/01/19
聖書―ヨハネの手紙一3章11~18節
(はじめに)
教会でよく聞く言葉は何でしょうか?「愛」という言葉を聞くのではないでしょうか。普段の生活の中では、「愛」という言葉は、何だか照れ臭いような気がして、使うことはあまりないかもしれませんし、聞くこともないかもしれません。けれども、聖書には、「愛」という言葉が何度も出てきます。
それでは、聖書に出てくる「愛」とは、どういうものなのでしょうか。愛の章と言われるコリントの信徒への手紙一13章、ここには、「愛」について書かれています。その言葉を読んでみます(一コリント13章4~7節)。
13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
「愛」について書いてある聖書の言葉、いかがでしょうか、私たちが、「愛」ということで思い描くものとは違うかもしれません。ここで言われている「愛」とは、神さまの愛のことなのです。この聖書の言葉について、ある方は、ここに書いてある「愛」という言葉を、「神の愛」とか、「イエス・キリスト」と読み替えて読んでみてください、と言われます。そうすると、神さまの愛とは、こういうものだということが分かる、イエス・キリストという方は、こういう方だということが分かるというのです。
(聖書から)
さて、今日お読みした聖書の言葉は、ヨハネの手紙一3章11節からです。このヨハネの手紙という文書にも、何度も「愛」という言葉が出てきます。この手紙を書いたと言われるヨハネという人は、「愛」について語りたかったのだと思います。一説によると、この手紙を書いたヨハネは、イエスさまの弟子、それも特別に選ばれた十二人の弟子の一人だったと言われています。そのヨハネには、あるあだ名がありました。あだ名というと、その人の特徴とか、名前から、あだ名が付けられることがありますが、ヨハネの場合はどうだったかというと、そのことが書いてある聖書の言葉を読んでみたいと思います(マルコ3章17節)。
3:17 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。
ゼベダイという人の二人の息子、それが、ヤコブとヨハネであった、ということです。ヤコブとヨハネという二人の兄弟がイエスさまの弟子に選ばれました。イエスさまは、この二人に、「雷の子ら」というあだ名を付けられました。私たちが、怒られたり、怒鳴られたりすると、誰々さんの雷が落ちた、と言います。イエスさまは、この二人の兄弟について、怒りっぽい、激しやすい性格だと思われたのでしょうか。「雷の子ら」というあだ名を付けたのです。
そのヨハネですが、若い時は、血の気が多くて、よく怒っていたのが、歳を取るにつれ、性格が穏やかになっていったのでしょうか。このヨハネの手紙を書いたころというのは、もうずいぶん高齢だったようです。自分の若い時のことを思い起こして、自分の怒りっぽい性格で、どんなに失敗してきただろうか、周りに迷惑をかけてきただろうか。そういう自分だったけれど、自分に関わってくれた人たちは、自分のことでどんなに忍耐してくれたのだろうか、我慢してくれたのだろうか。自分の人生を振り返って、自分がこれまでどんなに愛されてきたか、赦されてきたか・・・。それで、この手紙では、愛が大事だ、愛が大事だ、と繰り返し、愛について書いたのではないかと言われています。
愛されてきた喜びを知るヨハネでした。そのヨハネは、今日お読みした個所で、このようなことを言っています。
3:11 なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。
「互いに愛し合うこと」。私たちは、お互いに、愛し、愛されて生きる者です。ヨハネは、このことについて、「これがあなたがたの初めから聞いている教え」と言っています。この手紙の2章7節には、「初めから受けていた古い掟」とあります。1章5節には、「イエスから既に聞いていて・・・」とあります。神さまの教え、神さまの愛の教え、それは、聖書の初めからずっと教えられてきたこと、イエスさまが教えてくださったことだというのです。
続いて12節です。
3:12 カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。
旧約聖書の創世記の中に、カインとアベルの話があります。カインは兄で、アベルは弟です。二人はそれぞれ神さまに献げ物をしました。ところが、神さまは、弟アベルの献げ物には目を留められましたが、カインの献げ物には目を留められなかった、というのです。それで、カインは怒って、アベルを殺してしまった、という話です。アベルの献げ物の方が、カインの献げ物よりも優れていたのでしょうか。それとも、神さまは、アベルの献げる心を見られ、喜ばれたのでしょうか。そのことについては、はっきりしたことは分かりませんが、結果として、カインはアベルを憎んで殺してしまった、というのです。殺した理由について、「なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったから」とあります。ここから分かることは、これは、弟アベルの問題ではなく、カイン自身の問題だった、ということです。
それに続いて、13節には、このようなことが語られています。
3:13 だから兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚くことはありません。
神さまを信じていても、憎まれることはあります。憎まれる時、私たちは驚きます。どうして、自分が憎まれるのだろうか?カインとアベルの話でも、弟アベルは、神さまに対して、心からの献げ物を献げたのに、どうして自分は兄から憎まれなければならないのか・・・。と驚いたかもしれません。カインにとって、アベルという存在は、自分を脅かす疎ましい存在でした。自分の前から消えてほしい、とも思ったのです。私たちも、カインがアベルを憎んだように、憎まれるようなことはあるのです。正しいことをしても、良いことをしても憎まれる。イエスさまもそうでした。イエスさまは、神さまの福音を人々に伝えたことで憎まれ、ついには十字架にかけられてしまったのです。
14節の言葉をお読みします。
3:14 わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。
「死から命へと移った」とあります。ここで「死」というのは、罪による滅びということです。別な言葉で言うならば、愛さない、憎む生き方ということです。15節には、このようなことが言われています。
3:15 兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。
憎むことが人殺しというと、驚かれる方があるかもしれませんが、私たちが人を憎む時というのは、相手の存在を消してしまいたいという思いにまでなることがあるのではないでしょうか。実際に手を下しているわけではなくても、心で相手を殺してしまう、相手の存在を否定してしまう・・・。これが、聖書が教える罪なのです。
「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています」。「死から命へと移った」とあります。これは、生き方が変わった、ということです。憎む生き方から、愛する生き方へと転換した、ということです。相手の存在を否定することから、相手の存在を喜ぶ者へと転換した、ということです。どうして、そういう転換ができたのでしょう。その理由は、16節に語られています。
3:16 イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。
ここで「イエス」というのは、イエス・キリストのことです。イエスさまは、私たちのために命を捨ててくださいました。このことについて、別の聖書の個所では、このように書かれています。「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです」(一ペトロ2章24節)。私たちが生きるために、神さまの愛に生きるために、ご自分が十字架にかかって犠牲となられた。それが、イエスさまが身を持って示された神さまの愛です。
私は、この教会に来る前は、北海道の釧路の教会で牧師をしていました。その時代、函館の教会の用事に出かけたことがあります。空いた時間に函館の洞爺丸事故の資料が展示されている記念館に行きました。洞爺丸事故というのは、青函連絡船という青森と函館を結ぶ船が開通していた時代、今から七十年ほど前にあった大きな海難事故で死者、行方不明者合わせて千人を超える犠牲者が出ました。その中には、アメリカ人とカナダ人のキリスト教の宣教師もいました。ディーン・リーパーという宣教師、そして、アルフレッド・ストーンという宣教師は、自分たちの救命胴衣を二人の日本人に譲ったことが後になって、その人たちの証言によって分かりました。彼らがもしも、その救命胴衣を自分たちのために使ったなら、生き延びることができたかもしれませんが、二人の日本人の命を守るために、自らが犠牲になったのです。ヘブライ人への手紙13章7節には、このような言葉があります。
13:7 あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。
この二人の宣教師は、イエスさまの愛に生き、ご自分の尊い命を献げられた人たちです。私たちは、このような人たちの生き方から、神さまの愛をおぼえたいと思います。
(むすび)
17、18節をお読みします。
3:17 世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。3:18 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。
イエスさまが、この私のために命を捨ててくださった、という言葉を聞いても、今から二千年も前の話だから、とまるでおとぎ話や神話のように考えてしまう方があるかもしれません。しかし、イエスさまを信じた人たちの中には、ただいまお話した人たちのように、自分もイエスさまの愛に従って生きた人たちがいたことをおぼえたいと思います。そして、新たに、この私を愛し、この私のために命を献げてくださったイエス・キリスト、この方に出会って、死から命へ、憎しみから愛することへ、という生き方の転換をする方がありますように心から願っています。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
ヨハネは、自分が神さまから、そして、兄弟姉妹から、愛され、赦された者であることを知り、その感謝と喜びから、この手紙を書きました。
死から命へ、憎しみから愛することへ。イエス・キリストの愛を知り、新しい人生の歩みをされる方がありますように導いてください。また私たちも主の愛を見失うこと、忘れてしまうようなことがありませんように、いつも主を見上げて歩ませてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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