神と共に歩む 創世記5章1~32節 2025/01/26
聖書―創世記5章1~32節
(はじめに)
お読みしました聖書の箇所には、系図が書かれています。人類最初の人と言われるアダムからノアまでの系図です。ここには、誰が生まれ、誰が死んだ。そういったことが無味乾燥のように繰り返し書かれているように思えます。しかし、私たちは、命を与え、生きることを導いておられる方、神さまのことを知っています。そういう私たちは、ここに書かれている一人一人の人生というのは、神さまが与えてくださった人生、導いてくださった人生であった、ということを思いながら、読んでいきたいと思うのです。
(聖書から)
さて、お読みしました創世記5章、この箇所について、新共同訳聖書では「アダムの系図」という小見出しを付けています。まず、1、2節をお読みします。
5:1 これはアダムの系図の書である。神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、
5:2 男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた。
1節に「神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ」とあります。同じ創世記1章26節にも「我々に似せて」とありました。人、それは私たちのことでもありますが、私たちというのは神さまに似せて造られたのだ、というのです。それでは神さまに似るとはどういうことでしょうか?それは、私たち人間というのは、神さまの心、神さまの思いを生きる存在であり、またそれを表して生きる存在ということです。
私たちキリスト教会は聖書を正典として読みます。神さまの言葉として、私たち人間がどのように生きていったらよいのかをこれに聴きながら歩みます。神さまの言葉ですから、この言葉に神さまの心、神さまの思いが示されていると理解します、信じます。そして、神さまに似たものとして生きていこう。神さまの心、神さまの思いを知ろうと歩みます。
2節にはこのようなことも書かれていました。「男と女に創造された」。男と女が共に生きる存在としてあるのです。これに続いて、「創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた」とあります。「人と名付けられた」。ここには、共にあって、共に生きてこそ人なのだ、ということが言われているように思えます。
聖書が示す最初の人アダム。アダムには妻が与えられました。アダムとエバの間にカインとアベルという二人の子供が生まれました。今日お読みしましたこの箇所にはカインとアベルとは別に子供が生まれたことが書かれています。これは4章25、26節にも書かれています。セトという名前の子供です。カインとアベルの間には悲しむべき出来事が起こってしまいました。兄のカインが弟のアベルを殺してしまうという出来事、事件です。これはアダムとエバにとっては大きな悲しみだったでしょう。その悲しみを癒すかのようにしてセトが与えられました。3~5節をお読みします。
5:3 アダムは百三十歳になったとき、自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた。アダムはその子をセトと名付けた。5:4 アダムは、セトが生まれた後八百年生きて、息子や娘をもうけた。5:5 アダムは九百三十年生き、そして死んだ。
セトについて、このようなことが書かれています。「アダムは百三十歳になったとき、自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた。アダムはその子をセトと名付けた」。ここに「自分に似た、自分にかたどった男の子」とあります。先週は、私たちの教会では、献児式を行いました。子どもたちの誕生を祝い、成長を祈る式です。私たちは生まれてきたお子さんを見て、この子はお父さんに似ているかな?それともお母さんに似ているかな?と子どもたちのことを見ますが、ここで言われていることはそういうことでしょうか?
「似た」、「かたどった」とあります。先ほどお読みしましたところには「神に似せて」(1節)とありました。また1章26、27節にも、「我々にかたどり」、「神にかたどり」とあります。ここで言われていることは、ただ親に似た子どもというだけのことではありません。生まれてきた子どももまた、神さまに似たものとして、神さまにかたどったものということです。
つまり、私たちはみんな、神さまに似たものとして、神さまにかたどったものとして生まれてきた者なのです。それは素晴らしいこと、嬉しいことです。しかし、私たち人間について、聖書はもう一つの面を語っています。アダムとエバは神さまに対して罪を犯したことはこの創世記の箇所から皆さんご存じだと思います。罪について、創世記3章22節にこのように書かれています。
3:22 主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」
ここには「善悪を知る者となった」とあります。私たちは聖書から、神さまの言葉から、何が正しいことか、そうでないことかを知ります。善悪を知ることは大事なことです。ここで言われていることは、自分が神さまのようになるということです。神さまのようになるとは何でしょうか?善悪を決め、判断し、裁くのは神さまです。その権限を人間が神さまに代わって持とうとする。人間が神さまに代わって人を裁く。自分が神さまのようになること。それが、聖書が示す罪です。
3章22節には「永遠に生きる者となるおそれがある」とありました。永遠に生きる者。人間は、罪によって、永遠に生きる者とはされなかったのです。人間は死すべき存在とされたのです。そのことは今日お読みしました系図に表されています。この系図に繰り返し書かれていること、それは、人は生まれ、そして、いつの日か死ぬということです。
ここまでお話してお分かりのように、私たち人間は神さまに似たもの、神さまにかたどったものとされているということ、そして、罪を持った存在であるために死ぬべき存在ということ。私たちは、永遠に生きることはできないのです。この地上の人生は限られた人生なのです。
そういうことで、この系図には、アダムからセトが生まれ、セトからエノシュが生まれた。生まれ、そして、死に、ということが繰り返し、書かれています。ところが、ある箇所ではそれとは違うことが書かれています。エノクの箇所です。21~24節をお読みします。
5:21 エノクは六十五歳になったとき、メトシェラをもうけた。5:22 エノクは、メトシェラが生まれた後、三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。5:23 エノクは三百六十五年生きた。5:24 エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。
エノクについて書かれている箇所、ここには一つの特徴があります。21、24節に「神と共に歩み」とあります。エノクは神さまと共に歩んだ人であったことが書かれています。エノクについては新約聖書にも書かれていますので、その個所を読んでみましょう。ヘブライ人への手紙11章5節です。
11:5 信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。
エノクは、「神に喜ばれていた」とあります。神さまに喜ばれるとはどういうことでしょうか?ヘブライ人への手紙では、「信仰」という言葉が出てきます。それが、この創世記の個所では、「エノクは神と共に歩み」とあります。ここから分かることは、信仰とは、神さまと共に歩むということです。そして、神さまは、ご自分と共に歩む者を喜ばれるということです。
エノクの箇所の特徴として、「神と共に歩み」という言葉が加わっていると言いましたが、もう一つの特徴があります。それは「死んだ」という言葉がないということです。創世記では、「神が取られたのでいなくなった」とありました。神さまが取られる。神さまが主語、神さまが主体、神さまが中心。エノクの人生とはそういうものだったということです。これは、神さまに造られ、生かされている私たちすべてについても言えることです。私たちの人生は私たちのものではない。神さまのお与えになった人生、神さまが主体、神さまが中心の人生なのです。
さて、エノクについて、もう一つの特徴をお話したいと思います。この系図をご覧になりますと、何とみんな長生きなのでしょうか。年齢の計算方法が私たちの考えるのとは違う。そういうことを言われる人がいます。この時代は長生きできる環境だったのだ。だから、ここに書いてあるとおりの年数生きたのだ。そのように言われる人もいます。はっきりとしたことは分かりません。ただエノクの地上の生涯の年数と他の人たちの年数を比較してみるといかがでしょう。驚くことが分かるのではないでしょうか。
「エノクは三百六十五年生きた」とありました。この系図の中の他の人たちは、九百年とか、七百年とか、エノクと比べると、ずっと長生きです。日本は今では長寿の国として知られています。百歳を超える方も珍しくない時代です。ところが、エノクは当時の人たちの中では長寿とは言えない人でした。しかし、エノクは、神さまと共に歩んだ人でした。この聖書の箇所から知ることは神さまと共に歩む人生、神さまを主体、中心とする人生。そのような人生は、やがて地上の生涯を終える時が来ても、死で終わりではない。死を超えたものがある。それが永遠の命。「神が取られたのでいなくなった」。この言葉が、ヘブライ人への手紙には、このように書かれていました。「信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました」。神さまと共に歩む人生、そこに永遠の命がある。そのことをこのエノクの記事は私たちに教えているのではないでしょうか。
(むすび)
創世記5章を読みました。最後の28節以下にはこのようなことが書かれています。
5:28 レメクは百八十二歳になったとき、男の子をもうけた。5:29 彼は、「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう」と言って、その子をノア(慰め)と名付けた。5:30 レメクは、ノアが生まれた後五百九十五年生きて、息子や娘をもうけた。5:31 レメクは七百七十七年生き、そして死んだ。
5:32 ノアは五百歳になったとき、セム、ハム、ヤフェトをもうけた。
お読みしてお分かりのように、この箇所に続いて、ノアの話が書かれています。ノアについては皆さんもよくご存じかと思います。このノアの父がレメクという人でした。レメクがその子どもであるノアの名前を命名する時、このようなことを言っています。「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう」。そして、ノア、その名前の意味は「慰め」だそうです。レメクは神さまからの慰めを求めました。その願いは実現します。それはこの後のノアの話から知らされます。
私たちも神さまからの慰めを求め、受ける者でありたいと思います。そして、人々が教会においでになり、本当の慰め、神さまからの慰めを受けて、神さまと共に歩む人生を生きる者となりますように。祈りつつ、神さまの慰めを伝えていきましょう。私たちはその慰めをすでに知っているはずです。私たちの慰め、それはイエス・キリストの救いです。このことを伝えていきましょう。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
創世記の系図の個所から、あなたの言葉を聴きました。
一人一人の人生は、神さまが与えてくださったもの。そして、一人一人は、神さまに似た者、神さまの愛と恵みを表して生きる者として造られたこと。神さまと共に歩むことこそが、最善の道であることを教えてくださってありがとうございます。
私たちの人生が、神さまと共に歩む、神さまを信頼して生きるものでありますように。また、新たに神さまと共に歩む方がありますように導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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