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【礼拝説教】2023年5月21日「最も大切なこと」

2023年5月21日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「最も大切なこと」コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章1~11節

聖書―コリントの信徒への手紙一15章1~11節
(はじめに)
 パウロは、自分のことを「使徒」と言いました。お読みしましたコリントの信徒への手紙一の最初のところには、このようなことが書かれています。
1:1 神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロ
 「神の御心」とあります。神さまのお考え、神さまの思いということです。神さまのみ心によって、私はイエス・キリストの使徒とされました、と言っているのです。
 「使徒」というのは、使者、大使という意味です。東京には、いろいろな国から派遣された大使がいます。ですから、都内あちこちに、大使館があります。パウロは、自分は神さまから派遣された、遣わされたキリストの大使と言ったのです。
 キリストの大使の仕事は何でしょうか?キリストの大使の仕事は、福音をお伝えするということです。福音というのは、神さまがみんなに伝えるようにと教えてくださった「良いお知らせ」です。どんなことが良いお知らせなのでしょうか?今日はそのことをお読みしました聖書から聴いていきます。

(聖書から)
 1節をお読みします。
15:1 兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。
 ここに「生活のよりどころとしている福音」とありました。福音というのは、私たちの生活の拠り所だというのです。生活の拠り所、生活の中心とか土台ということです。福音というのは、私たちの生活、人生を支えるものなのです。
 続いて、2節です。
15:2 どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。
 ここには、「あなたがたはこの福音によって救われます」とあります。その一方で、「さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう」ともありました。福音は、私たちを救うものだ、と言っています。けれども、「無駄になってしまう」とありましたように、福音を無駄にする、ということがあるのです。
 ある人は、試練に遭って、とても悩んでいました。大きな失敗、挫折をしてしまい、自分はもうだめなんじゃないか、と思っていました。そういう彼に、友人が聖書の言葉を紹介してくれました。それは、旧約聖書・イザヤ書43章4節の言葉でした。こういう言葉です。
43:4 わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し
 この聖書の言葉は、こういう意味です。神さまの目には、あなたは価値のある、尊い存在です。神さまはあなたがどんなことがあっても、変わることなく、愛しています、ということです。この言葉を聴いた彼は、神さまという方は、この私を決して、だめだ、とは言われない。私のことを、あなたは価値のある存在、大切な存在と言っておられる。これは自分に語られている言葉だと受け止めていった時、立ち直ることができたそうです。
 このように、聖書の言葉は、私たちを立ち直らせる、私たちを生かす言葉です。また私たちに真実を示す言葉です。先ほど、この福音は私たちを救うもの、と言いましたが、福音を無駄にする、というのは、この福音が私たちを救うことを知らないままでいる、ということ、福音が書かれている聖書の言葉、神さまが私たちに語ってくださる言葉を聴かないままでいる、ということです。それはとてももったいないことです。私たちも、聖書の言葉を日々聴いて、生きる力をいただいていきたいと思います。
 さて、続く3節から、福音の中心の部分が語られています。
15:3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、15:4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、15:5 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。
 パウロは、「最も大切なこと」と言って、福音の中心部分を語ります。それは、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたこと」ということです。
 イエスさまは、私たちの罪のために十字架にかかり、死なれました。そして、墓に葬られました。でもそれで終りではありませんでした。三日目に復活されたのです。そして、復活されたイエスさまは、ケファ、これは弟子のペトロの別名です。ペトロに現れ、そして、十二弟子にも現れた、ということがここに書かれています。
 福音、その中心は、十字架と復活です。十字架と復活、それは、イエスさまが罪と死に勝利されたこと、私たちを罪から救い、死の滅びから救ってくださったことです。私たちは、キリストの使徒、大使として、人々に、イエスさまがあなたを罪と死の滅びから救ってくださいました!そのことをお伝えするのです。
 パウロは、福音の中心について話しましたが、それに加えて、6節以下では、このようなことも書いています。
15:6 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。15:7 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、15:8 そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。
 復活されたイエスさまは、十二弟子だけでなく、多くの人たちにも現れてくださいました。そして、8節には、このようなことが書かれています。「そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」。もしかすると、パウロが、一番言いたかったことは、このことだったかもしれません。復活されたイエスさまは、この私にも現れてくださった。
 ここで、一つ気になることがあります。それは、パウロが自分自身のことをこう言っていることです。「月足らずで生まれたようなわたし」。リビングバイブルという意味を分かりやすく訳した聖書では、「信仰の未熟児のような私」と訳されています。未熟児、とても小さな者ということです。何か、自分のことを卑下しているようですが、それにはちゃんとした理由があるのです。そのことが次の9節に書かれています。
15:9 わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。
 パウロは、イエスさまを信じる前の自分のことをここで語っています。イエスさまを信じる前、パウロはどういう人だったでしょう。パウロはこう言っています。「わたしは、神の教会を迫害したのです」。パウロは、キリスト教会を迫害する人でした。パウロは、キリストを信じる前は、熱心なユダヤ教徒でした。とても優秀で正義感の強い人でした。キリスト教は間違った教えを説いていると考えて、キリスト教を排除しなければ、という自分の正義感でキリスト教会を迫害していました。ところが、そういうパウロに、復活されたイエスさまは出会ってくださったのです。そして、イエスさまはパウロにこう言われました。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」(使徒26章14節)。サウルというのは、パウロのユダヤ名です。パウロがキリスト教会を迫害するというのは、イエスさまご自身を迫害することだ、ということです。そして、イエスさまを迫害すること、キリスト教会を迫害するということは、とげの付いた棒を蹴るようなことだ、と言われます。とげの付いた棒を蹴るとどうなりますか?自分が怪我をする、自分が傷つくことになるということです。
 私たちが、人に対して、意地悪をしたり、いじめたりすると、相手は傷つきます。もちろん、そういうことは決してしてはならないことですが、そればかりか、意地悪をする側、いじめる側である人自身も、その人格が傷つくことになるのです。なぜなら、神さまは私たちを互いに愛し合う者として造られたからです。私たちは互いに愛し合うことで、互いの人格は成長していく、生かされていくのです。けれども、その反対に、愛し合うことをしないこと、意地悪したり、いじめたり、憎んだりすることで、私たちの人格は傷つき、乾き、病んでしまうのです。
 神さまのみ子イエスさまに出会ったパウロは、今まで自分は正しい人間だと思って生きてきました。しかし、神さまのみ子イエスさまに出会った時、そうではないことを知りました。そして、イエスさまが教えてくださる神さまの愛、神さまの正しさに生きることを示され、自分の生き方が間違っていたことを認め、悔い改めたのです。「使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者」というのは、自分が神さまの前には、どんなに小さい者であるか、弱い者であるか、そのことを語っているのです。
私は、ある方がイエスさまを信じて生き方が変えられた、という証しを思い出します。自分はいつも自分の正しさを主張して生きてきた。自分を強く、大きく見せたいと思って生きてきた。でも、完全な愛と正しさの神さまの前に立った時、自分は一人の罪人に過ぎないことに気づかされた。しかし、そういう自分を神さまはそのままに愛して、赦しておられることを知った。それからは、自分は、自分の正しさを求めることや強く見せることをやめて、神さまの愛と赦しを感謝して生きることへ、神さまの愛と赦しに倣って生きることへ、生き方が変わった、と話されました。福音は人を変える、生き方を変えるのです。

(むすび)
 10、11節をお読みします。
15:10 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。15:11 とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。
 パウロは、自分がイエスさまに赦された喜びを言い表しています。「神の恵みによって今日のわたしがある」。私に与えられた神さまの恵み、それは罪を赦されたことです。パウロは赦された喜びから、福音を伝える働きに励んだのです。パウロは、こう言っています。「わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」。私はこんなにたくさんの働きをしました!と自分の働きを誇ってはいません。パウロが誇っているのは、神さまの恵みです。神さまの恵みが私を変えました。神さまの恵みが私に福音を伝える働きをさせました。私は、神さまの恵みによって生きている、生かされている。私たちもパウロと同じ神さまの恵みをいただいています。神さまの恵みを、神さまを賛美して歩んでいきましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
  パウロは、福音について改めて語ります。福音とは、十字架と復活、イエスさまが私たちのためになさった救いのみわざです。
 復活の主は、十二弟子だけでなく、キリスト教会を迫害していたこの私にも現れてくださった、とパウロは語ります。そして、復活の主は、今、私たち一人一人にも現れてくださる、出会ってくださいます。
 どうか、私たちが神さまの恵みを恵みとして受け入れることができますように。そして、神さまの恵みに押し出されて、福音を伝える者、福音に生きる者としてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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