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神に属する者 ヨハネの手紙Ⅰ 4章1~6節 赤塚バプテスト教会(朝・夕)礼拝説教 石堂雅彦牧師

神に属する者 ヨハネの手紙Ⅰ 4章1~6節 赤塚バプテスト教会(朝・夕)礼拝説教 石堂雅彦牧師

聖書―ヨハネの手紙一4章1~6節
(はじめに)
 お読みした聖書の個所は、ヨハネの手紙一です。これは、ヨハネという人が書いた手紙と言われています。この聖書個所を、このところ、月一度、礼拝の中で読み進めていますが、この手紙の最初の言葉を振り返ってみたいと思います(1章1~4節)。
1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。―― 1:2 この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。―― 1:3 わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。1:4 わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。
 この箇所について、私たちの使用している新共同訳聖書では、「命の言」という小見出しを付けています。1章1節には、「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます」とあり、「すなわち、命の言について」と続きます。「命の言」というのは、私たちが聞くことができる、目で見ることができる。そして、よく見て(これは、目を凝らして見る、凝視するという意味です。)、手で触れることができる、というのです。
 さらに、1章2節では、「この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです」とあります。命が現れる。また、この命というのは永遠の命である、とも書かれています。ここまで、お話ししますと、「命の言」というのは、何のことか、誰のことか、分かってくるのではないでしょうか。「命の言」、それはイエス・キリストです。
 「命の言」、イエス・キリスト、この方は、私たちが聞くことができる、目で見ることができる。そして、よく見て、手で触れることができる方なのだ、というのです。これはイエス・キリストという方が、私たち人間のところにおいでになった方、私たちのところに自らおいでになった神さまということを言われているのです。

(聖書から)
それでは、今日の聖書個所、この手紙の4章1~6節の言葉から聴いていきましょう。まず、1節です。
4:1 愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。
 ここに、「霊」ということが出てきます。「霊」という言葉を聞くと、幽霊とか、亡霊とか、そういう私たちの目に見えない、想像つかない不思議な世界にあるもの、オカルトのようなものに感じますが、そういうことが言われているのでしょうか。新約聖書の原語では、プネウマという言葉が使われていますが、これは、風とか、息という意味、また精神、心という意味があります。すると、私たちの人生、生き方に影響を与えるもの、私たちを動かすものという意味で理解することができると思います。その「霊」というものですが、「どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい」と書かれています。
 今の時代、インターネットが普及して、パソコンやスマートフォンを開くと、いろいろな情報が入ってきます。それは、検索すると、膨大な量の情報です。何と、便利な世の中になったものかと思いますが、心配もあります。それは、間違った情報、偽情報というのもいっぱい入ってくるのです。ですから、インターネットで調べることも気をつけなければなりません。私は、インターネットで調べ物をする時、事前に、その調べる物について信頼できる文書や資料などに目を通してから、検索するようにしています。
 「どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい」。今から、二千年ほど前に書かれた言葉ですが、これは今も変わりません。確かめなければ、本当は、神さまの教えでも何でもないのに間違った教えを聞き、それを気づかないうちに受け入れてしまうことがあるのです。では、本物か、偽物か、どうやって確かめたらよいのでしょう。2、3節に、このようなことが書かれています。
4:2 イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。4:3 イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。
 この時代にも、神さまの教えについて、間違った教えを伝える人たちがいました。では、どのようにしたら、その間違った教えから身を守ることができるのでしょうか。2節には、「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります」とあります。
 「イエス・キリストが肉となって来られた」。最初にお読みした聖書の言葉に、「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」、「この命は現れました」とありました。これは、イエス・キリストが、この世に、私たちのところにおいでになったことを意味しているとお話ししました。それと同じことが、この2節でも言われているのです。イエス・キリストが肉となって、というのは、人となって来られた、ということです。私たちが信じる神さま、救い主であるイエス・キリストは、人となって来られた方です。これが、聖書が私たちに示す正しい教え、信仰です。ところが、そんなことはありえないとして、イエス・キリストが人となって来られたことを否定する人たちがいました。それに対して、ヨハネは警戒しなさい、注意しなさい、と言うのです。
 ヨハネは、イエス・キリストを救い主と信じるあなたがたは、自分が何者であるかを自覚するように、と語ります。それが、4節です。
4:4 子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。
 「子たち」とあります。これは、神さまの子どもたちということです。あなたがたは、神さまの子どもだと言います。次に、このように語ります。「あなたがたは神に属しており」。あなたがたは神さまに属している。これは、あなたがたは神さまとつながっている、という意味から、このように訳したのでしょう。別の訳では、神さまから出た者(口語訳、聖書協会共同訳)と訳されています。神さまから出た者、という言葉からは、私たちが、神さまから造られた者、神さまから生まれた者ということが伝わります。
 そして、「偽預言者たちに打ち勝ちました」とあります。偽預言者というのは、間違った教えを伝える者たちのことです。この聖書個所で言えば、先ほどお話ししたイエスさまが人として来られた、ということを否定する人たちのことです。しかし、あなたがたは、その偽預言者たちに打ち勝った、というのです。どうして、そのようなことが言えるのでしょうか。それは、「なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです」と書かれているからです。「あなたがたの内におられる方」。2節には「神の霊」ということが書かれていましたが、これは、聖霊とも言います。あなたがたの内には神さまの霊が、聖霊がおられる。その方が勝利されるから、あなたがたもその勝利にあずかることができるのだというのです。
4:5 偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます。
 「世は彼らに耳を傾けます」とありました。これとは反対に、世は、私たちの言葉には耳を傾けません。それはどういうことかというと、私たちは、イエス・キリストの福音を信じています。イエス・キリスト、この方こそは、私たちを罪から、滅びから救ってくださる方です。この方を、この救い主を、私たち教会は語り伝えます。しかし、世は、それに耳を傾けない、信じようとしない、受け入れようとしないのです。
 イエスさまは、ご自分の弟子たちにこのようなことを言われました(ヨハネ16章33節)。
16:33 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
 世のただ中にあって、悩み苦しむ弟子たちに向かって、主は言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。「あなたがたには世で苦難がある」。主に従う者には、悩みがあり、苦しみがあります。人生の苦難があり、またイエス・キリストに従うゆえの苦難があります。私たちはそのことを通して、十字架を負うことの意味を教えられています。けれども、イエスさまは、このようにも言われました。「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。先ほどの4節の言葉とも重なります。イエスさまは、世に勝っている、罪と死に勝利された方です。私たちは、そのことを信じていく時に、神さまからの平和、平安が与えられるのです。使徒パウロは、その平和、平安について次のような言葉で言い表しています(一コリント15章58節)。
15:58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。
 「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならない」。私たちの歩みは、主にあっては決して無駄にならない。私たちの人生は、主にあっては決して無駄な人生ではない。このことを信じていきましょう。

(むすび)
 今日の最後の聖書の言葉です。
4:6 わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。
 「神の霊」、聖霊のことと言いました。お読みした6節では、それが「真理の霊」と書かれています。神さまに属する者、神さまから出た者。そのことを知る私たちは、世にあっては、いろいろなものが私たちを惑わし、迷わせますが、聖霊の助けによって、何が真実であるか、本当であるか、見分けていくことができるのです。私たちは、神さまの子どもです、神さまに属する者です。そのことをおぼえて、神さまを信頼し、神さまの平安をもって歩んでいきましょう。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
 世のただ中を生きる私たちは、何が正しいことか、真実なことか、分からないこと、迷うことだらけです。しかし、そういう私たちのところに、真実なお方、正しいお方であるイエス・キリストがおいでくださったことを感謝します。私たちの歩みの一歩一歩を、聖霊の助けをいただいて、み言葉に聴き、歩ませてください。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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