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イースター礼拝 振り向いて生きる ヨハネによる福音書20章1~18節

振り向いて生きる ヨハネによる福音書20章1~18節 赤塚バプテスト教会(朝・夕)イースター礼拝説教 石堂雅彦牧師

聖書―ヨハネによる福音書20章1~18節
(はじめに)
 イースター、おめでとうございます。
 イエス・キリストは、十字架につけられ、死なれ、葬られました。しかし、三日目に復活されました。そのことは、聖書が証言しています。キリスト教会は、この二千年、イエス・キリストが復活されたことを信じて歩んできました。イエスさまが死なれたのは、金曜日でした。そして、三日目の朝、日曜日の朝に復活されたことを記念して、日曜日を主の日として礼拝を行っています。

(聖書から)
 イエスさまの復活について、今朝は、ヨハネによる福音書から聴いていきましょう。
20:1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。20:2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」20:3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。
 最初の1~3節までの言葉をお読みしました。ユダヤの安息日を終えて、週の初めの日、日曜日の朝、マグダラのマリアは、イエスさまが葬られている墓に行きました。ところが、墓の入り口の石が取り除けてあったということです。ところで、このマグダラのマリアという人について、ルカによる福音書には、このように書かれています。「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」(ルカ8章2節)。マグダラというのは、地名のことです。マグダラ出身のマリア、この人は、イエスさまによって、七つの悪霊を追い出していただいたということです。七つの悪霊による病気というのは、おそらく、とても重い病気であったことを示しているようです。病気を癒していただいたことをきっかけに、イエスさまの弟子の一人になったようです。イエスさまの葬られている墓の入り口が開けられていた。そこで、マリアは、イエスさまの遺体が取り去られた、と考えて、イエスさまの弟子であるペトロ、そして、もう一人の弟子、この弟子については、「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」と書かれていますが、彼らにそのことを告げました。そのことを聞いた二人の弟子たちは、イエスさまの葬られている墓へと向かって行きました。次に4節以下をお読みします。
20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。20:5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。20:6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。20:7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。20:8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。20:9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。20:10 それから、この弟子たちは家に帰って行った。
 二人の弟子は、墓に駆けつけ、実際に墓の中に入り、イエスさまの遺体があるかないか、確認しました。ところで、8節には、「見て、信じた」ということが書かれています。いったい、彼らは何を信じたのでしょうか?イエスさまが墓の中にはおられない。そのことを信じたのでしょうか?9節には、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」とありますので、この時には、まだ彼らはイエスさまが復活されたことは信じていなかったと思います。マグダラのマリアが言っていたように、イエスさまの遺体が取り去られてしまった。これはどういうことなのだろうか?と戸惑いながら、彼らは家に帰って行ったのではないでしょうか。
 ここまでが、今日の聖書の言葉の前半です。イエスさまはどうなってしまったのか?マグダラのマリアの悲しんでいる様子が11節からの言葉に表されています。
20:11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、20:12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。20:13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」20:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
 マリアは墓の外に立って泣いていました。マリアは泣きながら身をかがめて墓の中を見ました。ペトロたちは、イエスさまの遺体があることに気づかなかったのではないか。もしかすると、墓の中にはイエスさまの遺体があるかもしれない・・・。かすかな期待を持って、墓の中を見たのかもしれません。すると、そこには、白い衣を着た二人の天使が見えた、ということです。天使たちは、マリアに言います。「婦人よ、なぜ泣いているのか」。マリアは答えました。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」。マリアはイエスさまのことを「わたしの主」と言っています。この言葉から、マリアがいかにイエスさまを慕い、愛していたかが分かります。
 私の愛する主はどこに行ってしまったのか・・・。マリアは悲しみの中にありましたが、14節には、このようなことが書かれていました。「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった」。マリアは後ろを振り向いた、とあります。墓の方を向いていたマリアでしたが、後ろを振り向いたというのです。何かの気配を感じたのでしょうか?振り向くと、そこには、イエスさまが立っておられました。その姿をマリアは見たのです。ところが、こう書かれています。「しかし、それがイエスだとは分からなかった」。そこにイエスさまがおられるのに、そこにおられる方がイエスさまだとは気づかなかったというのです。15節をお読みします。
20:15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
 イエスさまの方から、マリアに語りかけておられます。イエスさまはこう言われました。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。なぜ、マリアが、そこにおられるのがイエスさまだと気づかなかったのか、その理由が分かります。「マリアは、園丁だと思って言った」とあります。園丁、庭師です。マリアは、そこにおられる方がイエスさまだとは思ってもみなかったのです。マリアはこう言いました。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」。マリアは、心から慕い求める、愛するイエスさまの遺体を自分が引き取りたい、と言っています。イエスさまは、再び、マリアに語られました。
20:16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
 イエスさまは、今度は、「マリア」と言われました。「マリア」、その名前を呼ばれました。すると、マリアは振り向いて、イエスさまに対して、「ラボニ」と言いました。これは、ヘブライ語の言葉で「先生」という意味だということですが、「ラボニ」というのは、「私の先生」、「私の大いなる方」(岩波訳・注)ということです。私が心から愛し慕っている先生!と言っているのです。
 最初にマリアが振り向いた時には、そこにおられるのが、イエスさまだとは気づきませんでした。マリアは悲しみに支配され、イエスさまを見失っていたのです。しかし、イエスさまが、自分の名前を呼んでくださった、この時、そこにおられるのがイエスさまであることが分かったのです。彼女は振り向いて、イエスさまが復活されたことを信じたのです。振り向くとは、心の向きを変えるということです。悔い改めとは、このことです。今まで、自分の方を向いていたのが、イエスさまの方へ向きを変えたのです。その時、イエスさまが分かった、イエスさまが生きておられ、この私と共におられる、このことが分かったのです。主はマリアに言われました。
20:17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
 主は「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われました。マリアは、目の前におられるのは、イエスさま、私の主、私の先生だと分かりましたから、喜んでその手に触れたい、すがりつきたいと思ったことでしょう。それなのに、イエスさまの言葉は、何かマリアを突き放したようにも思えます。この「すがりつく」という言葉ですが、「しがみつく」(岩波訳)とも訳されます。しがみつく、というと、何かにこだわっているとか、固執している、という意味にもなります。マリアは、何にしがみついていたのか、固執していたのか、というと、イエスさまの遺体です。マリアは、死んだイエスさまにしがみついていた、固執していたのです。だから、ここで主が、「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われた意味は、こういうことだと思います。それは、「あなたは、もう私の遺体を捜し求めなくてもいい。なぜなら、私は復活したのだから、私は生きているのだから」。イエスさまは、十字架につけられ、死なれましたが、復活されたのです、主は生きておられるのです。「私が復活したこと、生きていて、あなたと共にいることを信じなさい」(11章25、26節参照)。主は、そう言っておられるのではないでしょうか。

(むすび)
 今日の聖書の言葉、その最後の言葉をお読みします。
20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
 マリアは、弟子たちのところへ行き、彼らにこう告げました。「わたしは主を見ました」。マリアが主を見た、というのは、イエスさまの遺体を捜し当てた、ということではありません。マリアは、「私は、復活された、生きておられるイエスさまに出会った」ということを言っているのです。
 イエスさまは、復活されました。今、この方は生きておられ、私たちと共におられます。私たちもこのことを信じていきましょう。そして、新たにイエスさまに出会う方がありますように、祈りつつ、この方をお伝えしていきましょう。主は私たち一人一人の名前を呼ばれます。一人一人の人生を共に歩んでくださいます。主の呼びかけを聞いて、主の方に振り向いて、向きを変えて新しく生きる方がありますように。イースターおめでとうございます。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
 主は復活されました。主の弟子たちは、イエスさまご自身から何度も、十字架と復活のことを聞いていましたが、信じることができませんでした。マグダラのマリアも信じることができず、ただひたすら、イエスさまの遺体を捜し求めていました。主は「マリア」とその名前を呼んでくださいました。その時、マリアは、主が復活されたこと、主は生きておられることが分かりました。そして、主の方へ振り向いて、主と共に生きる者とされました。
 今も主は、私たち一人一人の名前を呼んでくださいます。主は復活され、主は生きておられ、私たちと共におられます。この方に出会い、この方と共に歩む方がありますように導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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