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板橋区 教会 雪山

「古い人を脱ぎ捨てて」エフェソの信徒への手紙4章17~24節 2024/ 2/18 SUN.

「古い人を脱ぎ捨てて」エフェソの信徒への手紙4章17~24節 2024/ 2/18 SUN. 赤塚教会礼拝説教

聖書―エフェソの信徒への手紙4章17~24節
(はじめに)
 お読みしました聖書個所はエフェソの信徒への手紙4章17節からです。17節にはこのようなことが語られていました。「そこで、わたしは主によって強く勧めます」。「そこで」というのは、この箇所の前に語られていたことを指しています。エフェソの信徒への手紙4章1節には、このようなことが語られていました。「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み・・・」。
パウロは、エフェソの教会の人たちのことを、神さまから招かれた者と言っています。先週は、一人の方の信仰告白式とバプテスマ式を行いました。信仰告白をお聞きになった方はよくお分かりになったと思いますが、私たちがキリストを信じるというのは、自分の悟りとか、自分の思いつきということから始まるのではなく、まず、神さまの招きがあって、私たちが、その招きに応えていくことによって始まるのです。神さまが私たちをご自分の弟子として招いてくださっている。私たちはその招きに応えて、イエスさまを私の主、私の救い主と告白していく時、新しい歩みが始まるのです。
 1節には、もう一つ大事なことが語られていました。「その招きにふさわしく歩み」ということです。私たちが、神さまの招きにふさわしく歩むことが勧められています。このふさわしく歩む、ということを考えてみたいと思いますが、私たちが、信仰告白をして、バプテスマを受けるというのは、入学式のようなものと考えたらよいと思います。例えば、一人のお子さんが小学校に入学したとします。その時点では、入学したばかりで小学校で学ぶ内容について分かっているわけではありません。むしろ、何も知らない、分かっていない、真っ新な状態です。でもそこから、小学校に入学して、学んでいく中で小学生になっていくのです。もちろん、入学しているわけですから、小学生なのですが、入学してから、本当の意味で小学生になっていくのです。
 私たちがキリスト者、クリスチャンとして生きるということも同じです。バプテスマを受けて、キリスト者、クリスチャンとなった。その時点では何も分からない状態です。イエスさまが私の救い主と信じたことだけは分かるという状態です。入学した、出発点に立った、という状態です。そして、そこから本当の意味で、キリスト者になっていく、クリスチャンになっていくのです。パウロはそのことについてこのように語っています(フィリピ3章12~14節)。
3:12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。3:13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、3:14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
 この言葉は、新しく信仰を持った人だけに語られた言葉ではありません。イエスを主と信じるすべての人に向けて語られた言葉です。私たちみんなが今は途上にある者なのです。私たちはイエス・キリストに向かって、生涯かけて、共に成長していくのです。

(聖書から)
 さて、今日の聖書の言葉に戻ります。エフェソの信徒への手紙4章17~19節をお読みします。
4:17 そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、4:18 知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。4:19 そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。
 最初にも触れましたが、パウロは、「そこで、わたしは主によって強く勧めます」と語っています。「主によって」という言葉がありますが、これは、パウロが自分勝手に言っているわけではない、ということ、自分の考えを押しつけているわけではない、ということです。「主によって」という言葉があるのは、これから語るのは、神さまからの言葉なのだ、と言っているのです。牧師である私は、いつもこのことに気をつけていなければならない、と思わされます。牧師は、自分の思い、自分の考えを語るのではなく、神さまからの言葉、神さまの思い、お考えを語るように努める働きをするのです。そのためには、いつも語る時に、これが神さまからの言葉なのかどうか、言葉を吟味しなければならない、と自戒させられます。
 「もはや、異邦人と同じように歩んではなりません」と続きます。ここで「異邦人」というのは、ユダヤ人以外の人たちということではありません。文字通り、異邦人のことを言っているのではなくて、真の神さまを知らない人という意味です。神さまを知らない人のように歩んではならない、ということが言われているのです。
 その後には、「彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています」とあります。「知性は暗くなり」とか、「無知」とありますが、これは、神さまを知るという意味での知性であり、知識のことです。「心のかたくなさ」というのは、神さまに対して、心が頑なであるということです。この「心のかたくなさ」という言葉は、口語訳聖書では「心の硬化」となっています。硬化というと、動脈硬化とか、体の硬化、硬直化ということを連想します。
 私たちは、健康に気を遣いながら、生活していると思います。体の硬化、体が硬直化しないように運動したりします。しかし、私たちは、体の硬化だけでなく、心の硬化についても注意しなければなりません。神さまに対して心が頑なになる、心が硬化する。すると、どういう症状が出てくるかというと、19節には、「無感覚になって放縦な生活をし・・・」ということが言われています。神さまに対して心が頑なになると、無感覚という症状が出てくるのです。何について無感覚なのか、というと、罪について無感覚になるのです。罪を罪とも感じなくなる。罪について無感覚になる、鈍感になっていくのです。
 しかし、話はここで終わりません。20節以下、このようなことが語られます。
4:20 しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。4:21 キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。
 「しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません」とあります。19節までに語られてきたことに対して、パウロはこう語るのです。あなたがたは、神さまに召され、キリストを信じ、キリストと共に歩んできたから、そのようなことはないはずだ、というのです。
 21節に、「キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです」とありました。福音書を読みますと、キリストと共に歩んだ弟子たちの姿を知ることができます。主の弟子たちが、イエスさまの言葉を聴き、またイエスさまと生活を共にしている姿です。弟子たちは、その生活のただ中で、自分はどのように歩んだらよいのだろうか、とイエスさまに尋ね、またイエスさまの一挙手一投足を見様見真似しながら、歩んでいったことと思います。私たちも同じです。聖書を読むとか、お祈りをするというのは、神さまを知るために、神さまと交わりをするためにとても大切なことです。私たちは、聖書から神さまの言葉を聴くのです。そして、神さまに祈ることによって、神さまとの交わりを持つのです。み言葉に聴きながら、祈りながら、この人生の旅路を神さまと共に歩んでいくのです。

(むすび)
22節以下をお読みします。
4:22 だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、4:23 心の底から新たにされて、4:24 神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。
 私たちの信仰生活、主にある歩みというのは、脱ぎ捨てて着る、ということの繰り返しです。では、何を脱ぎ捨てるかというと、ここには「古い人を脱ぎ捨て」とありました。古い人とは、神さまを知る前の私たちのことです。罪に支配された古い私たちのことです。それを脱ぎ捨てるのです。先週のバプテスマ式で読まれた聖書個所(ローマ6章1~14節)には、この「古い人を脱ぎ捨てる」という言葉が「罪に対して死んだ」(ローマ6章2節)という言葉で言い表されていました。バプテスマというのは、お葬式にも例えられます。罪に支配された古い自分が死ぬのです。
「心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け・・・」とありました。「新しい人を身に着け」る、「心の底から新たにされ」る。けれども、私たちが本気で罪と向き合う時、自分の力では、自分でどんなに努力しても、それができないことに気づかされます。パウロは、そのことをこのように語っています。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。・・・わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ7章18、24節)。パウロも、そして、私たちも罪に対して太刀打ちできない惨めな者です。しかし、そういう私たちを神さまが新しくしてくださるのです。私たちは、自分の力、努力では新しくなることはできませんが、古い人から新しい人へ、そのことを神さまに祈り求めていくのです。神さまは私たちの祈りに応えてくださり、私たちを罪から救い出し、新しい歩みへと導いてくださいます。バプテスマは罪に支配された古い自分のお葬式と言いましたが、バプテスマは神さまと共に生きる新しい自分の誕生日でもあるのです。神さまが、私たちを新しい人として生まれさせてくださり、日々、成長させてくださることを信じて、歩んでいきましょう。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
 あなたが私たちを招いてくださったことを感謝します。
「古い人を脱ぎ捨て・・・神にかたどって造られた新しい人を身に着け」(24節)とありました。これは自分の力、努力でできることではありませんが、イエス・キリストを受け入れる時、主が、私たちを新しくしてくださいます。そのことを信じて、主を見上げ、主を希望として歩ませてください。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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