
天の国で一番偉いのは? 2025年6月1日 マタイによる福音書18章1~9節
聖書―マタイによる福音書18章1~9節
(はじめに)
イエスさまの弟子たちが、イエスさまにあることを尋ねました。今日お読みした聖書の最初の言葉です。
18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。
弟子たちの質問、それは、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」ということでした。この言葉から分かることは、弟子たちはお互いに競争していたということです。誰が天の国で一番偉いだろうか?誰がイエスさまの弟子としてふさわしい者なのだろうか?けれども、私たちの信仰生活というのは、誰が一番偉いか、そのようなことを考えて、意識して歩むものなのでしょうか?イエスさまの弟子たちに対する答えを読んでいきましょう。
(聖書から)
イエスさまはこのようにお答えになりました。
18:2 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、18:3 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。18:4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。18:5 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
イエスさまは、一人の子供を呼び寄せられました。そして、その子供を弟子たちの真ん中に立たせて、そしてお答えになりました。まず、言われたことはこのようなことでした。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」。
「心を入れ替えて」とあります。別の訳では、「悔い改めて」(新改訳)、「向きを変えて」(新改訳2017)、「翻って」(岩波訳)、「たちもどって」(田川訳)と訳されています。いきなり、イエスさまは、「心を入れ替えなさい」と言われたのです。それはどういうことかというと、弟子たちの質問そのものが問われているのです。「だれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」。誰が一番偉いか。そのようなことを考えていることが問題なのだ、ということです。
最初にお話ししましたように、私たちの信仰生活というのは、誰が一番偉いか、そのようなことを考えて、意識して歩むものなのか?そうではないのです。でも、私たちは、誰かと自分を比べて、あの人は立派だ、私はかなわない。この人よりは私の方が上だ・・・。そういうことを考えてしまう。しかし、信仰生活というのは、人と自分を比べて勝った、負けた、ということではありません。
一方で、信仰生活は、競争です。信仰生活を競争で例えた聖書の言葉もあります。その言葉を読んでみます(ヘブライ12章1、2節)。
12:1 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、12:2 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。
ここには、「自分に定められている競走」と書いてあります。信仰生活は競争です。しかし、それは誰かと自分を比べるというものではありません。あの人やこの人を見ながら、自分よりも上か下か、と歩むものではありません。このように書いてあります。「自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」。イエスさまを見つめながら、忍耐強く走り抜く、という競争です。
今日の聖書の言葉に戻ります。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」。心を入れ替える。悔い改める。向きを変える。自分が偉くなることを求めていた弟子たちでした。それはつまり、自分の方を向いて歩んでいたということです。自分が一番偉く思われたい。しかし、主はその心の向きを変えなさい、と言われたのです。
「子供のようにならなければ」と言われました。子供のようになる、とは、どういうことでしょうか?子供ということを考えると、私たちの子供のイメージというのは、可愛らしい、とか、純真とか、幼いといったものだと思います。しかし、聖書の舞台であるユダヤにおいては、それとは違う意味がありました。子供、それは無力な者、無価値な者という意味です。
イエスさまは、続けて、このように語られました。「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」。弟子たちは、誰が一番偉いか、ということを競争していました。しかし、そのことを求めることは間違いだ、とイエスさまは言われました。そして、「子供のようにならなければ」と言われ、さらには「自分を低くして、この子供のようになる人」とも言われました。自分は子供のように、無力な者、無価値な者。そのことを自覚して生きる。それが、自分を低くするということです。私は無力な者、無価値な者です、というと、何か自虐的なように思うかもしれませんが、そういうことではありません。またこれは誰かと自分を比べて、あの人よりも自分は無力だ、無価値だ、ということでもありません。ここでイエスさまが言われた自分を低くする、自分が無力な者、無価値な者ということを自覚するというのは、私たちが、神さまの前に立つ時、そこで知ることなのです。
私たちが、神さまの前に立つ時というのは、祈る時であるとか、み言葉を聴く時でしょう。神さまの前に、私は本当に何もない、小さな者。そのことに気づかされるのです。私はこの6月にバプテスマを受けました。その時、一緒にバプテスマを受けたのが、小学生の女の子でした。バプテスマを受けた後、その子は、こういうことを言いました。私は神さまを信じて、神さまの前には小さな小さな自分だということを知らされた、というのです。私はその話を聞いて、素晴らしい証しだなあ、と思いました。神さまの前に自分という者はどんな存在なのか、ということを教えられました。
イエスさまは、このようなことも語られました。「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」。イエスさまは、弟子たちに、子供のようになりなさい、と言われました。そして、それに続いて言われたのが、この一人の子供を受け入れなさい、と言われたのです。これはどういうことかというと、この世において、無力な者、無価値な者とされている人を受け入れなさい、ということです。この世において、小さな者とされている人を受け入れなさい、ということです。この一人を受け入れることは、私を、つまり、イエスさまを受け入れることなのだ、というのです。
イエスさまの弟子たちのこれまでの生き方というのは、上昇志向というものだったと思います。より高い地位、より高い能力を目指していこうという生き方だったと思います。またそれとは反対に、世において低くされている人たち、小さくされている人たちには見向きもしないような生き方だったのではないでしょうか?イエスさまは、弟子たちの普段の姿、生き方をご覧になって、心を痛めておられたのではないかと思います。この人たちは、いったい何を求めて、何に向かって歩んでいるのだろうか?そういう弟子たちに、「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と語られたのではないでしょうか。
(むすび)
イエスさまは、続いて、「小さな者」について語られました。
18:6 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。18:7 世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。18:8 もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。18:9 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」
小さな者を躓かせてはいけない、と言われました。そのことを厳しい例えを用いて、それがどんなに罪深いことであるかを語られました。ここで言われている躓きというのは、神さまのもとに行くことを妨げるということだと思います。世において無力な者、無価値な者とされている人、小さな者とされている人、その人たちが神さまのもとに行くのを、私たちが妨げるようなことがあってはならないのです。私たちにとっての小さな者とは誰でしょうか?それは私たちの家族のことであるでしょう、友人のことであるでしょう。いろいろな人たちの顔が思い浮かぶのではないでしょうか。その一人一人が神さまのもとに行くことができるように。そのために私たちは何をしたらよいでしょうか?それはイエスさまの福音を伝えていくことではないでしょうか。イエスさまに出会い、イエスさまと一緒に人生を歩んでいくことができるように。一人一人のことをおぼえて祈りながら、イエスさまの福音を伝えていきましょう。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
イエスさまに弟子たちは尋ねました。「だれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」。これはまるで私たちのようです。人と自分を比較し、勝った、負けた、ということで一喜一憂してしまう私たちのようです。主は言われました。「心を入れ替えて子供のようにならなければ・・・」と。悔い改めなさい、自分に向いていた向きを変えて、神さまの方を向きなさい、と言われました。
神さまの方を向いて歩む時、今まで見えていなかったものが見えてきます。自分の本当の姿、罪にまみれ、小さな、弱い自分の姿が見えてきます。しかし、そういう私を愛し、憐れみ、赦し、新しく歩ませてくださる神さまの愛が見えてきます。
神さまの前に私たちは一人の小さな者です。そして、そういうあなたも小さな者を受け入れよ、と主は言われます。小さな私たちを愛し、受け入れてくださった神さまの愛に押し出されて、私たちも小さな者を愛し、受け入れる者にしてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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