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その一匹を喜ぶ神 マタイによる福音書18章10~14節 2025年6月8日 

その一匹を喜ぶ神 マタイによる福音書18章10~14節 赤塚バプテスト教会(朝・夕)礼拝説教 石堂雅彦牧師

聖書―マタイによる福音書18章10~14節
(はじめに)
イエスさまは、「これらの小さな者」(10節)と言われました。先週の説教の中で、この「小さな者」というのは、世において小さくされている人のことであるとお話ししました。私たちにとって、「小さな者」とは、誰だろうか、というと、いろいろな人のことを思い浮かべるのではないでしょうか?とお話ししました。しかし、このマタイによる福音書を改めて読み返してみると、イエスさまの言葉の中に、「小さな者」ということが出てくる別の個所がありました。マタイによる福音書10章42節です。
10:42 はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。
 この言葉を読むと、イエスさまは、ご自分の弟子のことを、「小さな者」と言っておられることが分かります。イエスさまの弟子は、「小さな者」なのです。イエスさまを私の救い主と信じている人、その人は、イエスさまの弟子であり、イエスさまの目から見ると、「小さな者」なのです。その私たちが、イエスさまによって、愛され、生かされている。それがどんなに恵みであるか、そのことを私たちは忘れないでいたいと思うのです。
 ある人は、「神さまの愛に慣れてはいけない。神さまの恵みに慣れてはいけない」と言いました。これはどういうことかというと、神さまの愛、神さまの恵みが当たり前のことのように思って、感謝も喜びも失ってはいけない、ということです。神さまの前には、小さな私たち、罪赦された私たち、その私たちが今日も命を与えられて、生かされて、愛されていることを忘れないでいたいと思うのです。

(聖書から)
 今日の聖書の言葉を読みます。まず、10、11節です。
18:10 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。(18:11人の子は、失われたものを救うために来た。)〔†底本に節が欠落 異本訳〕
 今お読みして、おかしい?と思われた方があると思います。聖書本文には、10節はありますが、その後の11節はありません。新共同訳聖書をお持ちの方は、新約聖書の60ページ、ここは、マタイによる福音書の最後のページですが、そのページに、「底本に節の欠けている箇所の異本による訳文」とあり、大きな数字で18、小さな数字で11とあるのが、マタイによる福音書18章11節という意味です。そして、「人の子は、失われたものを救うために来た」とあります。この11節の言葉がなぜ、聖書本文にはないのかというと、聖書の研究によって、この11節というのは、後になって加えられたことが分かったからです。しかし、後になって加えられたから、無意味な言葉であるのか、というと、そうではないと思います。この聖書個所を読んだ人が、「人の子は、失われたものを救うために来た」、このことを心から信じて、その思いから、これを加えたのです。「人の子」というのは、イエスさまのことです。イエスさまは、私たち失われた者、つまり、神さまから離れていた者を救うために来てくださったのだ。そのことを聖書の言葉を読み、感動して、書いたのだと思います。
 10節をもう一度、読んでみます。「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」。「小さな者」。それは、世において小さくされている人のこと、そして、私たちのことです。その一人でも軽んじないように気をつけなさい。他人を軽んじる。別な言葉で言うなら、人を見下げる、馬鹿にする、そういうことでしょう。他人だけでなく、自分のことも軽んじてしまう。どうせ、自分はこういう者だ、と自分で自分を評価してしまう。けれども神さまは、あなたを軽んじてはいません。あなたが軽んじているあの人、この人のことも軽んじてはいません。つまり、神さまが、あなたを、あの人を、この人を軽んじるようなことはしないのだから、あなたも軽んじてはいけない、と言われているのです。
 10節の後半には、このような言葉が続いています。「言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」。「彼らの天使たち」とあります。「小さな者」の天使たちということです。天使たちは何をするのかというと、「天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいる」。「天」とは、天の国、神の国ということです。そこでいつも「わたしの天の父」、イエスさまの父、父なる神さまのことです。その「御顔を仰いでいる」というのは、神さまが執り成しておられる、ということです。あなたがたには、天使がいて、その天使が、あなたがたと神さまの間を執り成してくださっている、というのです。
 天使ということが出ていましたが、ヘブライ人への手紙1章14節には、天使について、このようなことが書かれています。
1:14 天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。
 ヘブライ人への手紙1章には、天使についての説明が書かれています。例えば、この書の1章4節にはこのようなことが書かれています。
1:4 御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです。
 「御子」とは、イエスさまのことです。イエスさまは、天使たちより優れた者とあります。なぜ、この箇所では、天使についての説明があるのでしょうか?もう一か所、コロサイの信徒への手紙2章18、19節の言葉を見てみましょう。
2:18 偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、2:19 頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。
 「偽りの謙遜と天使礼拝にふける者」とありました。天使を礼拝する者がいたというのです。「こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、頭であるキリストにしっかりと付いていない」とあります。もしかして、何か幻を見たのでしょうか。天使が現れた、という幻を見た。そういう特別な霊的な体験をしたのかもしれません。しかし、それが、自分の誇りになってしまった。私は、天使を見た。私という人間は、霊的な体験をするほどの特別な人間なのだ!その体験を通して、思い上がってしまった。しかし、キリストにつながることよりも、キリストに従うことよりも、自分の体験の素晴らしさを誇るようになって、信仰がおかしくなってしまった・・・。
 当時のユダヤの人たちの中には、自分たちには、守護天使がついていて、守ってくれる。そういう信仰の人たちがいたようです。そういうことから、イエスさまは、あえて、天使のことを引用して語られたのです。しかし、ヘブライ書には、天使について、「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされた」と語られていました。「奉仕する霊」、「救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために遣わされた」者。コロサイ書にあったように、天使について、あまり関心を持つ必要はないと思います。私たちは、神さまを礼拝する者であり、天使礼拝をしてはならないのです。天使の役割は奉仕する、仕えることだとあります。小さな私たちです。そういう私たちのために、神さまは助けを与えてくださる、守ってくださる。執り成してくださる。そのことをおぼえたいと思います。
 12節以下の言葉をお読みします。
18:12 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。18:13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。18:14 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
 イエスさまは、一つのたとえ話を語られました。この話は、どこかで聞いたことがあると思われた方があるでしょう。ルカによる福音書15章4~7節にあるイエスさまのたとえ話とほとんど同じ内容です。百匹の羊を持っている人がいて、その中の一匹が迷い出たらどうするか、という話です。その人は、その一匹を必死で捜しに行きます。そして、その一匹が見つかったなら、それは大きな喜びとなるというのです。「迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶ」とありますから、この話を読んで、「それでは、迷った方がいいのか?見つけ出してもらったら喜んでもらえるから」と言う人がいますが、これはそういう話ではありません。おそらく、百匹の羊を持つ人にとっては、どの一匹も大切な一匹だと思います。ですから、迷い出てしまった、いなくなってしまった、ということが、どんなに大きな悲しみであり、それが見つかったら、どんなに大きな喜びであるのかを示している話だと思います。そして、私たちが、この話を読む時、自分がこの迷い出た一匹だったことを受け止めていきたいと思うのです。この私を必死で捜し求めてくださった神さま。私は神さまに喜ばれている者。そのことをおぼえたいと思うのです。

(むすび)
14節の言葉、このたとえ話のまとめの言葉です。「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」。神さまのみ心、神さまの願っておられること、それは、「これらの小さな者が一人でも滅びること」がないように、ということです。そして、この話を読んだ人が、神さまの愛、その一匹、その一人を愛する心を知って、感動して、11節の言葉を書いたのです。「人の子は、失われたものを救うために来た」。失われた者、神さまから離れていた私。その私のために、人の子が、イエスさまがおいでくださった。この方が、この私のために、ご自分の命をささげて、私を救いへと導いてくださった。その喜び、感謝から、この言葉が書かれたのです。
偉くなりたい、大きくなりたい、と願っていたイエスさまの弟子たちでしたが、主は、一人の子供を彼らの前に連れて来て語られました。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」(3、4節)。子供は自分を支え、助け、導いてくれる存在がなければ、生きていくことはできません。そしてそれは、私たちも同じです。私たちは、小さな者であり、神さまなしに立っていくことはできません、生きていくことはできません。天の国に入るとは、そういう自分であることを知って、主のもとに行くこと、主に自分自身を任せて生きることです。主のもとに行く人が、天の国に生きる人がありますようにお祈りいたします。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
  あなたの目には、私たちは小さな者です。けれども、あなたの目には、私たちは高価で尊い者とされていることを感謝します(イザヤ43章4節)。そのことを知る私たちはお互いのことも、大切にする者としてください。
迷い出た一匹の羊をどこまでも捜し求めた人のように、主は私たち一人一人を捜し求めておられます。一人でも多くの方があなたのもとに立ち返ることができますように。私たち一人一人があなたの喜びであることを知り、主のもとに立ち返ることができますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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