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【礼拝説教】2023年6月4日「岩の上に家を建てる」

2023年6月 4日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「岩の上に家を建てる」マタイによる福音書7章24~29節

聖書―マタイによる福音書7章24~29節
(はじめに)
 イエスさまは山の上で人々に神さまの教えを語りました。そのことが書いてあるのが、お読みしましたマタイによる福音書の5章から7章です。今日は、その最後の個所をお読みしました。マタイによる福音書7章24節をお読みします。
7:24 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
 「これらの言葉」とありました。「これらの言葉」とは、これまでイエスさまが人々に語ってきた言葉のことです。イエスさまが人々に語られた神さまの言葉のことです。
 神さまの言葉について、別の聖書個所では、このようなことが書かれています(一ペトロ2章1、2節)。
2:1 だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。2:3 あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。
 この聖書個所では、神さまの言葉のことを「霊の乳」と言っています。別の訳では、「みことばの乳」(新改訳)となっています。赤ちゃんが、ミルクをごくごくと飲んで成長するように、私たちも、霊の乳である神さまの言葉をいただいていくならば、成長するというのです。ただここで注意することがあります。「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って」と書かれています。まず、捨てるべきものを捨てるということです。そして、霊の乳である神さまの言葉をいただくのです。「救われるようになるため」、「主が恵み深い方だということを味わいました」ということも書かれていました。神さまの言葉によって、神さまの救いというものがどのようなものであるかを知ることができる。神さまがどんなに恵み深い方であるかを知ることができる、ということです。
 先週から、教会学校が始まりました。教会学校は神さまの言葉をみんなで一緒に学ぶひと時です。どうぞ、教会学校にご参加ください。そして、一緒に神さまを礼拝しましょう。

(聖書から)
 山上の説教の最後のメッセージについて、小見出しには、「家と土台」と付けられています。家を建てる時、土台が大切です。今日の最初の聖書の言葉にも、このようなことが書いてありました。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」。
 岩の上に自分の家を建てた賢い人とあります。なぜ、岩の上に家を建てることが賢いのでしょう。岩は固くて、頑丈です。25節には、岩の上に建てた家について、こう書いてあります。
7:25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。
 ここには、家を建てる話が言われているようですが、これはたとえ話です。イエスさまが人々に伝えたかったことは何かというと、私たち一人一人の人生のことです。家を建てるために、しっかりとした土台が必要なように、私たちが自分の人生を築いていくために、やはりしっかりとした土台が必要なのです。岩のように固い、頑丈な土台が必要です。その土台は何かというと、イエスさまが語った神さまの言葉です。
 「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった」とありました。私たちの人生も、雨が降り、川があふれ、風が吹くようなことがあります。それは、試練の時と言ったらいいでしょうか。私たちはそういう時、心が揺れ動いてしまいます。「どうしたらいいだろうか?」とうろたえてしまいます。そういう私たちを支えるのが、神さまの言葉だというのです。
 ところで、今日の聖書の言葉、26、27節には、このようなことが書かれていました。
7:26 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。7:27 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
 読んでみると、こんなことが書いてありました。「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者」。先ほどは、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」とありました。どちらの人も、「わたしのこれらの言葉」、つまり、イエスさまが語られた神さまの言葉を聞いた人です。でもその後が違います。神さまの言葉を聞いて行う人と神さまの言葉を聞いて行わない人。行うのと行わないという違いです。
 ここで言われていることを理解するためには、25節にありました「岩を土台としていた」、この言葉が大事な言葉、キーワードになると思います。神さまの言葉を聞いて行う、聞いて行わない、とはどういうことか。神さまの言葉を聞いて行う、とは、神さまの言葉を自分の人生の土台にする、ということです。一方、神さまの言葉を聞いても行わない、というのは、神さまの言葉ではない別のものを自分の人生の土台にする、あるいは何の土台もなしに生きる、ということです。
 私たちの信仰生活、神さまの言葉を聞く生活というのは、自分の人生の土台作りと言ってもいいと思います。神さまの言葉を聞くことで、神さまのことを深く知らされる、新しく知らされる。神さまが自分にしてくださった恵みを深く知らされる、新しく知らされるのです。
 これまで礼拝の中で読んできました山上の説教の聖書個所から、幾つか振り返ってみたいと思います。少し前にお読みしました聖書個所、マタイによる福音書7章7~11節、ここには、こういうことが書かれていました。
7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。7:9 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。7:10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。7:11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
 この求めよ、探せ、門をたたけ、ということについては、自分の願っていることを積極的に求めることが言われていると理解されることが多いです。もちろん、神さまは私たちのことを愛しておられ、私たちに必要なものを与えてくださる方です。マタイによる福音書6章11節には、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」とイエスさまが自分の必要を求めて祈ることを教えておられます。同じ6章31~33節には「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」とあります。ここでも、イエスさまは私たちに必要なものを与えてくださることが言われています。
 7章9~11節には、神さまと私たちの関係を、親と子供でたとえています。親は愛する我が子がパンや魚を欲しがるのに、石や蛇を与えるはずはありません。親は子供に良い物を与えようとします。そうであるならば、神さまはご自分の子供である私たちに良い物を与えないはずがありません、ということが言われています。ヤコブの手紙1章17節には、このようなことが書かれています。
1:17 良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。
 私たちは自分の子供時代を思い起こすと、自分にとって本当に良い物かどうか、まだ区別がつかない、判断できないことがあったと思います。親の方では、自分にとって本当に良い物を与えてくれていても、その時には喜べなかったかもしれません。神さまと私たちの関係でもそういうことは度々あると思います。そういう私たちですが、神さまこそは本当に良い物を与えてくださる方であることを信じていきたいと思うのです。今日の個所では、イエスさまが人々に神さまの言葉を語られたことが書かれていましたが、この神さまの言葉というのは、私たちが生きていくために、良い言葉、必要な言葉なのです。聞いても聞かなくてもいいような言葉ではないのです。私たちはこれからも一緒に神さまの言葉を聞き続けていきましょう。

(むすび)
 イエスさまが、山上の説教、そのメッセージを語り終えられた時の人々の様子が書かれています。
7:28 イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。7:29 彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
 「群衆はその教えに非常に驚いた」とあります。その驚きの理由は、次の言葉から分かります。「彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったから」。「権威ある者としてお教えになったから」。それはどういうことだったでしょうか?
 新型コロナの感染拡大が始まってから、多くのキリスト教会では、礼拝や説教をインターネットで配信するようになりました。礼拝に出席できない方にも、礼拝に参加してほしい、神さまの言葉を聞いてほしい、という教会の願いから、そういうことになったと思います。おかげで私はいろいろな教会の礼拝の様子や説教を観たり、聞いたりして、教えられることがたくさんあります。牧師の説教もいろいろなスタイル、タイプがあります。そういうことを思いながら、この権威ある者としてお教えになった、というのはどういうことだったのか考えますと、声高に、あるいは厳かに、というような話し方ということよりも、権威、この場合は神さまの権威ということですが、この神さまの権威とは何かというと、神さまの愛、真実ということではないでしょうか。人々は、イエスさまがこの私に向かって、愛をもって、真実から語ってくださっている。この方の語ることは信頼できる言葉。そのように受け止めて聞いたのではないかと思います。そして、イエスさまの言葉をまともに受け止めて聞いた人たちにとっては、その言葉はその人の生きる力、土台となったことでしょう。
 聖書は神さまからのラブレター、愛の言葉であると言われます。神さまの言葉を聞いたり、語ったりする時、このことはとても大事なことです。神さまの言葉を聞く時、神さまはこの私を愛しておられるゆえに語っておられる。神さまの言葉を語る時、神さまはあなたを愛しておられるゆえに語っておられる。そのような思いをもって、聞き、語る者でありたいと思います。

祈り
恵み深い主なる神さま
  あなたのみ子であるイエスさまは、神さまの権威をもって、神さまの愛と真実をもって、人々にみ言葉を語られました。
 そして、今も主は、私たちに聖書から語ってくださいます。神さまの言葉を自分の人生の土台としていくことができますように、私たちも神さまの言葉を受け入れる者としてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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