
契約のしるし 創世記9章1 ~17節 2025年6月22日
聖書―創世記9章1~17節
(はじめに)
旧約聖書のノアの物語は、聖書の中でもよく知られている箇所の一つです。神さまは、世の中に悪がはびこり、その様子を大変悲しまれ、心を痛められ(6章5、6節)、そこで決断されたのが洪水ということでした。しかし、神さまはただ洪水を起こされたということではなく、人々が洪水から逃れられるように道を備えてくださいました。それが箱舟を造り、その中に入るように、ということでした。人々は神さまの思いに応えることはありませんでしたが、ノアは神さまが備えてくださった道を選び、箱舟を造り、そこに入りました。
(聖書から)
さて、洪水が過ぎ去り、箱舟に入っていたノアたちが箱舟を出て、まず行なったことは何かといいますと、8章20節には、このようなことが書かれていました。
8:20 ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。
これは何かといいますと、ノアは神さまを礼拝した、ということです。ノアが箱舟から出て、最初に行なったことは神さまを礼拝することでした。以前、教会のある方の証しを聞いたことがあります。自分は、家族の中でただ一人神さまを信じている、クリスチャンで、家族で食事をする時には、自分がお祈りをする、それも声を出してお祈りをするというのです。すると、家族は静かに、その祈りの言葉に耳を傾けてくれるというのです。おそらく家族の方は、その祈りの言葉を聴いて、その方の信仰の姿を見ておられるのではないか、神さまを信じるとはどういうことなのかを聞いておられるのではないかと思います。これは素晴らしい証しだと思いました。教会に連なる皆さんの中にも、家族の中で、自分だけがクリスチャン、お仕事の場、ご近所付き合いの場、そういったところでも、自分だけがクリスチャンということもあると思います。そういう中で信仰を守り続けていくことは大変なことだと思います。クリスチャンであるということを公けにしたことで、厳しい立場に置かれたという話を聞いたことがあります。内側には救いの喜びがあっても、その喜びがかき消されそうになってしまうような批判や中傷を受けるということもあるかもしれません。このノアの物語を読んでいくと、はっきりと神さまを信じる信仰に立っていたのは、もしかすると、ノアだけだったかもしれません。そのノアが、自分の弱さも、欠けも知る家族の前で、神さまに向き合う姿、神さまを礼拝し、祈る姿を見せていったのではないだろうか。そういうノアの姿を見て、家族も信仰へと導かれていった・・・。そんなことを想像するのです。
さて、創世記9章の初めの箇所をお読みしますと、神さまがノアとその息子たちを祝福して言われた言葉が書かれています。
9:1 神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、地に満ちよ。9:2 地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。9:3 動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。9:4 ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。
9:5 また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。
9:6 人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。
9:7 あなたたちは産めよ、増えよ/地に群がり、地に増えよ。」
この「産めよ、増えよ、地に満ちよ」から始まるこの祝福の言葉は、同じこの創世記でも書かれていました。創世記1章28節です。
1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
今日お読みしました箇所の1、2節の言葉と似ています。神さまが天地を創造された時に語られた言葉と同じようなことを語っておられます。ある牧師先生はこの両方の聖書の言葉について、神さまは同じようなことを語っておられるけれど、大きな違いがあると言っています。それはどういうことかというと、今日の箇所においては、人間の罪の問題があって、それを通って語られた言葉だというのです。創世記1章にある祝福の言葉は、神さまが人を創造された時に語られた言葉であったけれども、その後、人は神さまから離れ、罪に陥ってしまった。そして、神さまは洪水を起こされた。厳しい裁きです。そのようなことがあった後に神さまは、天地創造の時のように、この祝福の言葉を再び語られた。この「再び語られた」ということには、大きな意味がある。それは、神さまの人間に対する赦しという意味が込められているということです。創世記9章のこの言葉は、単なる祝福の言葉というのではない。赦しの意味が込められた言葉なのだ、というのです。ノアの洪水以後の私たち人間が知らなければならないことはこのことです。私たち人間は、神さまに赦されて生かされている存在ということです。
3節には人間が生きていくために必要なものとして、生き物が食糧として与えられたことが語られていますが、4節には「ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない」とあります。ここには、「肉は命である血」とあります。生きているものは体内に血が流れています。血が流れているというのは生きている証拠です。神さまは人に対して、動物を食糧として食べることを許してくださった。血を含んだまま、食べることをしない、ということで、この言葉に従って、当時、神さまの民は、血を抜いて食べたということですが、それは、命は神さまが与えたものなので、与えてくださった神さまにお返しするという意味だそうです。すなわち、ここには与えてくださった神さまに感謝していただくということが教えられていると思います。
そして、5節以下では、人間の命について示されています。「また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」。
ここで言われていることは、人間同士が殺し合ってはならない。命を奪い合うようなことがあってはならない、ということです。それはなぜなのでしょうか?何年か前の話ですが、『なぜ人を殺してはいけないのか?』という問いの言葉が書名になっている本が出版されました。その当時、その書名がとても衝撃的で、評判になりました。その本の帯には、「あなたはこの問いに答えられますか?」という言葉がありました。著名な人たちの中でも、この問いに対して、いったいどう答えたらよいのだろうか?そのように言われる方がありました。しかし、この聖書の言葉からは明確な答えが書かれています。「人は神にかたどって造られたから」。私たち人間は、神さまにかたどって造られた、神さまに似せて造られた存在です。現代においては、人権、人として生きる権利ということがとても大切なこととされていますが、これは、聖書からきている考え、思想だと言われています。神さまにかたどって造られた存在。それは、神さまの心を、神さまの思いを反映させる、表す存在ということです。そういう私たちは殺し合ってはならない。むしろ、互いの命を尊重し合い、共に生きるようにと造られた存在なのです。
今日の説教題は「契約のしるし」としました。9節以下にそのことが出てきます。9節以下を読んでみます。
9:9 「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。9:10 あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。9:11 わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」
9:12 更に神は言われた。
「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。9:13 すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。9:14 わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、9:15 わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。9:16 雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」
9:17 神はノアに言われた。「これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」
ここには、「二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」(11節)、「水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない」(15節)とありました。繰り返し神さまは語られていること、それは、「滅ぼすことは決してない」ということです。ここで二つのことをお話したいと思います。一つは契約のしるしについてです。神さまがお立てになった契約のしるし。そのしるしとは何でしょうか?13、14、16節にありますように、「虹」です。私は幼い時に教会学校でノアの物語の話を聞きました。絵本や紙芝居でも、虹の絵が出てきます。虹というのは、神さまのお立てになった契約のしるし。その印象はとても強くて、虹を見る度に、神さまの契約のしるしということを思い浮かぶのですが、関根正雄という旧約聖書の専門の先生が訳した翻訳では、「わたしはわたしの弓を雲の中におく」と訳されて、「虹」が「弓」となっていました。ところで英語では、虹のことをrainbowと言いますが、これはrain(雨)とbow(弓)という言葉で成り立っている言葉です。雨の弓、それが虹だというのです。
ところで、弓とは何でしょうか?弓とは攻撃するための武器です。それが契約のしるしだというのです。神さまは弓を、武器を私たちに向けるようなことはなさらない。あなたがたを攻撃しない、あなたがたを裁かない、というしるしだというのです。私たち人間は、罪によって、神さまから裁かれなければならない存在です。しかし、神さまは私たちを攻撃しない、裁かないというのです。それはなぜかというと、私たちの罪による裁きを、神さまご自身が、神さまのみ子であるイエス・キリストが受けてくださったのです。契約のしるし、それは、神さまの赦し、私たちの罪をすべて引き受けてくださったイエスさまの十字架による赦しが示されているのです。
そして、もう一つのことですが、16節をご覧ください。「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める」。ここに書かれていることですが、神さまは虹をご覧になるというのです。虹をご覧になって、ご自身がお立てになった契約を心に留められるというのです。それは、神さまは、ご自分がお立てになった契約を忘れない、ということです。神さまは私たちを裁くことをしない。私たちを愛し、赦してくださった。私たちもこの契約を忘れてはならないのです。神さまが私たちに約束してくださったこと、私たちになさった神さまの愛を、神さまの赦しを忘れてはならないのです。
(むすび)
神さまは私たちのすべてをご存じのうえで、罪を知ったうえで、祝福の言葉を語られ、契約を結んでくださいました。しかし、私たちは、その背後には、神さまのみ子イエス・キリストの十字架の救いがあること、神さまの赦しがあることを忘れてはならないのです。神さまの愛と赦しによる契約、約束。このことを私たちは決して忘れないようにしたいと思います。そして、この愛と赦しに応える歩みをしていきたいと思います。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
神さまが契約のしるし、しるしとして示された虹、それは、あなたがたを裁かない、攻撃しない。神さまの愛と赦しを示しています。そして、そのことは、神さまのみ子イエス・キリストによって、私たちの前にはっきりと示されました。主の十字架の救いによって、私たちは罪から解放され、新しく生きる者とされたことを感謝します。どうか、私たちがこの恵みの出来事を忘れることなく、いつも見つめ続けて歩む者としてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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