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2020年5月10日 主日礼拝(朝・夕拝)説教 「神の言葉は生きている」

2020年5月10日(朝・夕)礼拝説教「神の言葉は生きている」マルコによる福音書6章14~29節

➡ 2020年5月10日 礼拝プログラム(クリックしてください)

(はじめに)

今朝も私たちは共に集って、救い主イエス・キリストを礼拝しています。共に集って、と言いました。もちろん、会堂に集っているわけではありません。しかし、私たちはイエス・キリストのおられるところに共に集っているのです。このような形での礼拝を行なって、もう一ヶ月が経ちました。日本中の多くのキリスト教会、世界中の多くのキリスト教会が会堂に集うことができないでいます。私は今、心から思っています。皆さんと顔と顔を合わせて、礼拝を行なうことができるというのは本当に素晴らしいことです。けれども、それができないでいます。
これは教会の危機ということでしょうか、礼拝の危機ということでしょうか。いいえ、私は思うのです。これは神さまからの問いかけではないだろうか、と。あなたは会堂でなければ、礼拝ができないのですか、という問いかけです。それに対して、私たちはどう答えるでしょうか。会堂でなければ、礼拝ができません。いいえ、私たちはどこにいても礼拝を行なうことができるのです。なぜなら、主はあなたの置かれたその場所におられるからです。私たちはそこでも礼拝を行なうことができるのです。
一つの聖書の言葉を思い起こしました。フィリピの信徒への手紙4章11~13節です。「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」とあります。私たちは今、このみ言葉を教えられているのではないでしょうか。

(聖書から)

お読みしました聖書の言葉はマルコによる福音書6章14節からです。私たちの教会で使用している新共同訳聖書ではこの箇所について、小見出しが付けられています。「洗礼者ヨハネ、殺される」。洗礼者ヨハネ、バプテスマのヨハネと言われる人物のことです。この人が殺されたことが書かれているのが今日の聖書の言葉です。
イエス様が人々に福音、神さまからの喜びの知らせをお伝えし、そのことがヘロデ王の耳にも入った、ということが書かれています。ヘロデ王というのは、イエス様がお生まれになった時、イエス様が救い主であると聞いて、不安に感じたというヘロデ王の息子のことでヘロデ・アンティパスという人のことです。今日お読みしました聖書の記事と同じ内容の記事がマタイによる福音書、ルカによる福音書にもありますが、そこにはヘロデ王のことが領主ヘロデとなっています。王様ではないのです。ローマ帝国からガリラヤの領主とされたのがヘロデ・アンティパスなのです。けれども、マルコによる福音書はヘロデ・アンティパスを単なる一地方の領主とは書かず、王と書いたのです。どれだけ強い権力を持っていたかを表わしたかったのかもしれません。
ヘロデ王が耳にした人々の言葉というのはこういうものでした。「「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた」(14,15節)。これを聞いたヘロデ・アンティパスはこんなことを言っています。「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」(16節)。洗礼者ヨハネ、バプテスマのヨハネはこの時点ではすでに死んでいました。それはヘロデ・アンティパスが首をはねたからでした。こうして、この後にはバプテスマのヨハネがなぜ、死んだのか、その経緯が書かれています。
ヘロデ・アンティパスにとって、バプテスマのヨハネは決して忘れることのできない人物でした。ヘロデ・アンティパスは自分の兄弟であるフィリポという人の妻であったヘロディアと結婚したことが17節に書かれています。これはヘロデ・アンティパスが自分の兄弟の妻を奪ったということです。このことについて、バプテスマのヨハネがヘロデ・アンティパスを批判したのです。17、18節にこのように書かれています。「実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである」。
バプテスマのヨハネはヘロデ・アンティパスの行なったことを律法では許されていないこと、つまり、神さまの目に正しくないことをした、とはっきりと批判したのです。それでヘロデ・アンティパスは自分を批判するヨハネを捕らえ、牢につないだというのです。このことから知ることは、神さまの目に正しいことがこの世では通じないことがあるということです。ヘロデ・アンティパスは福音書記者マルコがヘロデ王と書いているように、この世の権力者でありました。神さまの目に適わないことであっても、それをも押さえ込んでしまう力を持っていたのです。
ヘロデ・アンティパスだけでなく、その妻となったヘロディアもヨハネのことを快く思っていませんでした。ヨハネを亡き者にしようと考えていました。けれども、そうすることができない理由がありました。19、20節をお読みします。「そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである」。
ヘロディアがヨハネを殺すことができないでいた理由、それは夫であるヘロデ・アンティパスがヨハネのことを正しい聖なる人であることを知っていて、恐れ、保護していたからだった、ということです。ではヨハネが正しい聖なる人であることをどのようにして知ったのか、というと、この言葉から分かります。「その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」。ヨハネの語る教えを聞いて、知ったのです。
それにしても、ヘロデ・アンティパスにとっては、バプテスマのヨハネという人は自分の結婚の経緯を知っていて、それをあからさまに批判するなど、大変やっかいな、消えてほしいと思うような人であったと思います。ところが、そのヨハネの教えを聞いて、非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた、というのは不思議に思えます。
ところで、「その教え」とは何でしょうか。ヨハネが何か人々の心を引きつけるようなお話をしていた、ということではないと思います。「その教え」、それは神さまの言葉です。ヨハネについて、マルコによる福音書の最初の章にはこのようなことが書かれています。「神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(1章1~4節)。バプテスマのヨハネは救い主がおいでになる。そのための準備、道備えという使命、役割を担ったのです。
ヘロデ・アンティパスはその言葉を聞いて、喜んだのです。神さまの言葉、福音とはこのようなものなのです。ヨハネはヘロデ・アンティパスにも悔い改めを語りました。悔い改め、心の向きを変えるということです。自分に向いていた生き方、自己中心の生き方から、神さまの方を向くように、神さまを中心に生きるように、他者のために生きるように。その言葉を彼は喜んで聞いたのです。
ヨハネの語る神さまの言葉を聞いていた時のヘロデ・アンティパスの心の様子がこのように書かれています。「非常に当惑しながらも」。当惑したというのです。これは私たちも同じです。神さまの言葉を聞くと、私たちは当惑するのです。なぜなら、神さまの言葉を聞くと、私たちの今までの生き方、考え方、そういったものが問われたり、崩されたりもするからです。でもヘロデ・アンティパスは「なお喜んで耳を傾けていた」というのです。それは神さまの言葉を聞くことにより、私たちの心に光が照らされ、真理を知るという喜びです、本当のことを知るという喜びです。
この後、ヘロデ・アンティパスは妻ヘロディアにそそのかされて、ヨハネを殺してしまうことになります。その時のヘロデ・アンティパスについて、「王は非常に心を痛めたが」(26節)と書かれています。ヘロデ・アンティパス自身はヨハネから聞く神さまの言葉によって、真理を知る喜びを体験し、彼自身の心が、生き方が変えられようとしていた矢先のことでした。真理を選び取ることができないで終わってしまった。それはバプテスマのヨハネの悲劇というよりも、ヘロデ・アンティパスの悲劇であったと思います。神さまの言葉、いのちの言葉に生きることができなかった悲劇です。

(むすび)

今日の説教には「神の言葉は生きている」という題を付けました。バプテスマのヨハネは殉教の死を遂げることになりましたが、ヨハネは死んでも、ヨハネが語った神さまの言葉は生きている。ヨハネもまた神さまのお与えくださった永遠の命に生きている。そのことを思って、この題を付けました。ヘブライ人への手紙13章7節にこのような言葉が書かれています。「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」。私たちはバプテスマのヨハネ、また多くの信仰の先達のことを思い起こしたいと思います。彼らが語った神さまの言葉、み言葉は生きています。それは聞く者自身を生かし、また他者を生かす者となります。そして、私たちを永遠の命へと導きます。神さまの言葉、それはいのちの言葉であり、イエス・キリストご自身のことです。これを受け入れ、新しい歩みをされる方がありますようにお祈りいたします。

 祈り

イエス・キリストの父なる神さま
私たちはいつでも、どこでもあなたを礼拝する者、礼拝者とされたことを感謝します。主の復活を記念する日曜日から始まる新しい一週間の歩みを導いてください。
ヘロデ・アンティパスはバプテスマのヨハネの語る神さまの言葉を当惑しながらも喜んで聞いたとありました。神さまの言葉を喜んで聞いた。それは真理を知る、本当のことを知る喜びです。さらには神さまの愛を知る喜びです。神さまは私たちが罪に支配され、悪に支配されることを悲しまれます。神さまのお示しになる愛と真理に生きることを願っておられます。どうか、このことを受け止めて、日々、悔い改めに生きる、主の愛に立ち帰り、主の愛を思い起こし、生きることができますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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