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「主の名によって集まろう」2025年7月6日 マタイによる福音書18章15~20節

主の名によって集まろう マタイによる福音書18章15〜20節 赤塚バプテスト教会(朝・夕)礼拝説教 石堂雅彦牧師

(はじめに)
 お読みした聖書の最初の言葉はこういう言葉です。
18:15 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。
 ここに「兄弟」とあります。自分の家族についての話かと思われた方があるかもしれませんが、ここで言われているのは、教会の兄弟姉妹のことです。教会について、聖書は「キリストの体」(一コリント12章27節)と言います。教会に連なる私たちはキリストの体であり、お互いは大切な体の部分です。誰一人欠けてはならない、かけがえのない大切な、必要な一人一人です。そういう私たちについて、聖書は、「神の家族」(エフェソ2章19節)とも言います。教会に連なる一人一人は、神さまの家族。そこから、教会では、お互いのことを○○兄弟、○○姉妹と呼び合うようになりました。しかし、最近は、ジェンダーのことを考慮して、多くの教会では、○○兄弟、○○姉妹というふうに性別で分けない呼び方で、〇〇さんと呼ぶようにしています。またお読みした聖書では、「兄弟」となっていますが、2018年に翻訳された最新の日本語訳聖書である聖書協会共同訳では、平仮名で「きょうだい」と訳しています。漢字で兄弟という場合は、男の兄弟ということになりますが、平仮名の「きょうだい」というのは、男女区別なく、兄弟、姉妹ということですから、そのように訳したのでしょう。実際、ここに「兄弟」とあるのは、男女区別なく、教会の一人一人のことが言われているのです。

(聖書から)
 さて、もう一度、15節をお読みしますと、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」とありました。ここでは、罪の問題が取り扱われています。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」とあります。罪とは、関係の断絶、関係の破れから起こってくることです。創世記を読むと、人間が神さまに対して罪を犯したことが書かれていますが、それは、人間の側から、神さまに対して関係を断ってしまったことが言われています。聖書が教える罪、それは、神さまとの関係の断絶、破れであり、お互いの関係の断絶、破れということです。
 このことについてどのように対処したらよいか、ということがここで言われているわけですが、「二人だけのところで忠告しなさい」とあります。まず、二人だけで、当事者同士で罪の問題を解決するように、ということが言われているのです。「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」とあります。「言うことを聞き入れ」るというのは、罪を認め、赦しを乞うということです。罪を犯した相手に対して、罪を犯した人は、謝罪する。「ごめんなさい」、「申し訳ありません」と謝るのです。
私は、毎朝、連続ドラマを観ているのですが、あるドラマでは、主人公が「ごめんなさい」という言葉を頻繁に言っていました。そのドラマというのは、主人公が、日本の女性で初めての裁判官という設定でしたが、裁判官というのは、罪を裁く立場にあるということから、その主人公自身が、自分の罪の問題に対しても敏感な人であった。自分自身に対しても厳しい人であった、ということが表されているのだろうかと思いました。これは私の深読みしすぎかもしれせんが。
ところで、クリスチャンとはどういう人かというと、自分が神さまの側に立って、正しい者になって、他人をバッサバッサと裁く人ということではありません。イエスさまはむしろ、そういう人のことを厳しく批判されました。イエスさまの山上の説教の中でも、他人を裁く前に、自分の罪に気づくように(マタイ7章1~6節)、と語られました。クリスチャンとは、神さまの前に自分の罪を認め、悔い改めて新しく生きる人のことです。私たちは、神さまに出会う前は、自分の罪よりも、他人の罪にばかり目を向けて、他人を裁いていたのではないでしょうか。それが、神さまを信じることによって、神さまの前に自分が一人の罪人であり、自分が神さまに裁かれなければならない者であることを知らされ、この私のためにイエスさまが、すべての罪を担ってくださった。罪から救われたことを知り、主の十字架の愛と赦しを感謝して生きる者とされたのです。
一方で、今の時代は、お互いの関係において、「ごめんなさい」という言葉があまり聞かれなくなった、謝ることが少なくなった、できなくなったように思います。むしろ、人から誤り、間違いを指摘されたら、言い訳をするとか、逆切れするという話を聞きます。「ごめんなさい」と言えない。素直に謝ることができない。いつも自分以外の誰かが悪いという話になってしまう・・・。そういうことを考えると、何か世の中そのものが病んでいるように思えてなりません。
「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」。間違いを間違いとして認める、罪を罪として認める。そのことによって、断絶していた関係が回復する、というのです。こういう話をしますと、「いえいえ、現実にはそう簡単なことではありません」と言われる方があるかもしれません。確かに簡単なこと、単純なことではないかもしれません。
コヘレトの言葉7章29節には、このような言葉があります。
7:29 ただし見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが/人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。
 旧約聖書のコヘレトの言葉、これは、ソロモン王の言葉と言われるものですが、「神は人間をまっすぐに造られたが/人間は複雑な考え方をしたがる」とあります。「人間は複雑な考えた方をしたがる」。聖書協会共同訳では、「人間はさまざまな策略を練ろうとする」となっています。新改訳2017では、「人は多くの理屈を探し求めた」となっています。神さまは、私たち人間をご自分に似た者として造られました。しかし、人間は神さまから離れ、罪に陥ってしまった。それなのに自分の罪を認めないで、話を複雑にして、理屈をこねてごまかしたりしてしまう。私ではなくて、あの人のせいで・・・。創世記のアダムとエバの聖書の個所などを読むと、人間は最初から、複雑な考えをして、理屈をこねて、自分の罪を認めないでいたことが分かります。
 今日の個所に戻ります。
18:16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。18:17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
 イエスさまは、あの手この手を尽くして、罪を認め、罪から離れることができるように努めることを語っておられます。このようなことから分かることは、教会は、罪と戦う群れであるということです。罪に陥っている人がいたら、その人が罪から離れることができるように、教会は、その人を支援していくのです。
 この話の流れで、次の18節を読んでいきたいと思います。
18:18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。
 ここで「つなぐ」とか、「解く」というのは、どういうことかというと、「つなぐ」というのは、禁止するということです。一方、「解く」というのは、許可することです。「あなたがた」というのは、教会のことです。教会は、神さまから、罪を断罪すること、罪を赦すこと、その権限を託された群れであるということが言われています。それはとても責任重大です。だからこそ、次の言葉に続くのです。
18:19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
 ここだけを切り離して読むと、「どんな願い事であれ」とありますから、祈ることは何でも神さまはかなえてくださるのだ、ということが言われていると思うかもしれません。しかし、この言葉の前の個所では、罪の問題が取り扱われていましたから、そこからの流れで読んでいくとこのように理解することができます。一人の人が罪を認め、罪から離れることがいかに難しいことだろうか・・・。しかし、「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」。神さまはそういう私たちの祈りに応えてくださる。神さまが、その人が罪を認め、罪から解放されることを実現してくださる。私たちはそのことを信じて、神さまに期待していきたいと思うのです。

(むすび)
今日の最後の聖書の言葉をお読みします。
18:20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
 「わたしの名によって集まるところ」とあります。イエスさまの名によって集まるところ。それは、私たち教会です。今、私たちは、イエスさまの名によってここに集められています。イエスさまは、このようにも言われました。「わたしもその中にいる」。イエスさまは、私たち教会の中におられる、と言われました。私たち一人一人は不完全な者、欠けだらけの者です。すぐに神さまの愛から離れ、罪に陥ってしまうような者です。そういう私たちですが、神さまの前に、いつも悔い改める。先ほどの言葉で言うなら、「ごめんなさい」と言える者でありたいと思います。そして、イエスさまの十字架の愛、赦しをいつも見上げて歩んでいきたいと思います。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
私たちを主が呼び集めてくださり、教会としてくださったこと、キリストの体、神さまの家族としてくださったことを感謝します。
そういう私たちですが、どこまでも不完全な者であり、欠けだらけの者です。神さまの愛と赦しを見失い、自分が赦された罪人であることも忘れ、自分の罪に向き合うこともせず、自分の正しさを主張し、他者を裁いてしまう。そういう私たちが、日々悔い改めて、主を見上げ、主によって新しくされたこと、主の愛と義に生きる者とされたことを信じて歩む者とさせてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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