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【礼拝説教】2023年4月2日「本当に、この人は神の子だった」

2023年4月2日(日)(朝・夕)赤塚教会受難週礼拝説教「本当に、この人は神の子だった」マルコによる福音書15章33~41節

聖書―マルコによる福音書15章33~41節
(はじめに)
 今日からの一週間は受難週です。受付に受難週の聖書箇所の表が置いてありますので、その表を用いて、受難週の時を過ごしていただきたいと思います。お読みしました聖書箇所は、マルコによる福音書15章です。この章の初めには、当時、ユダヤを治めていたローマ総督ピラトによる尋問のことが書かれています。そして、ピラトの裁きによって、イエスさまは十字架につけられることになります。

(聖書から)
 同じマルコによる福音書15章22節から、イエスさまが十字架につけられる場面が書かれています。25節からお読みします。
15:25 イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。15:26 罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。15:27 また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。 15:29 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、15:30 十字架から降りて自分を救ってみろ。」15:31 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。15:32 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。
受難週の表をご覧いただきますと、イエスさまは金曜日に十字架におかかりになったということです。今お読みしましたように、25節には、イエスさまは午前九時に十字架につけられた、ということです。そしてそれから、三時間、昼の十二時からの出来事が、33節以下に書かれていました。
15:33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。15:34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。15:35 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。15:36 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。
 十字架につけられたのが、午前九時、そして、昼の十二時には、全地は暗くなった、とあり、それがさらに午後三時まで続きます。つまり、イエスさまが十字架につけられて六時間が経った時のことがこのように書かれていました。「三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」。
 六時間も十字架につけられたままの状態であったイエスさまの苦しみはどれほどのものであったか、想像することもできませんが、その中で叫ばれたのが、この「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という言葉でした。この言葉だけを読みますと、何か呪文のような言葉のように思われるかもしれませんが、これはイエスさまが日常使っておられたアラム語の言葉をそのまま音訳したものです。その意味は、ここに書かれているように、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」ということです。この言葉の冒頭の言葉を聞いて、そこに居合わせた人たちの中には、イエスさまは、旧約聖書に出てきた預言者エリヤの名前を呼んでいる、と言う人もいたということです。ちなみにヘブライ語では、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(マタイ27章46節)となっています。また、この言葉の意味、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉は詩編22編の冒頭の言葉と似ていますから、イエスさまは、十字架の上で詩編の言葉をそらんじたのだ、と理解する人もいます。詩編22編は、前半は絶望の言葉のように思えますが、後半では希望の言葉になっていきます。そういうことから、イエスさまは死を前にして、絶望されたのではなく、それでも希望を語られたのだ、という理解です。そのようなことから、イエスさまの十字架の上の叫びについては、いろいろな理解がありますが、はっきりしたことは分かりません。
 37節以下には、イエスさまが息を引き取られた様子、そして、周りの人たちの様子が書かれています。
15:37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。15:38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。15:39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
 イエスさまが息を引き取られた時、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」ということが書かれていました。神殿の垂れ幕というのは、神殿の中の聖所と至聖所を仕切る、あるいは区切る幕のことです。それが真っ二つに裂けた、というのは、どういうことでしょうか?聖所の奥には至聖所がありました。そこは、ユダヤの大祭司しか入ることができない場所でした。ところが、垂れ幕が裂けてしまった、ということは、神殿の入り口から、聖所、そして、その奥の至聖所まで、全部見えてしまうことになります。
 この当時、神さまという方を見ることができる、お会いできると言ったらいいかもしれませんが、それができるのは、特別な人だけと考えられていました。特別な人とは誰か、というと、大祭司だけが年に一回、神殿の奥、至聖所に入ることができる。つまり、年に一回だけ、大祭司だけが神さまにお会いすることができると考えられていました。それが、垂れ幕が裂かれてしまったことで、そうではないことを神さまが示されたのです。神さまにお会いできるのは、特別な人だけではない、年に一回だけではない。誰でも、いつでも、神さまにお会いできるのです。
 今、私たちは、その恵みにあずかっています。私たちも神さまにお会いしています。難しい言葉で言うと、啓示ということです。それは神さまの方から、私たちにご自身を顕わしてくださるということです。神さまはご自分のみ子であるイエスさまを私たちにお送りくださいました。イエスさまの方から、私たちのところにおいでくださったことによって、私たちはイエスさまと出会い、イエスさまといつも一緒に歩むことができるようにされました。
 ここには、その恵みにあずかった人のことが書かれていました。百人隊長です。この人について、このように書かれていました。「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った」。百人隊長は、ローマの兵隊です。イエスさまを十字架という刑罰に直接処した側の人間です。そういう人がイエスさまの死を目の前で見て、こう言ったのです。「本当に、この人は神の子だった」。考えてみると、不思議なことです。どうしてこのようなことが言えたのでしょうか?
 もう一度、百人隊長について書かれている言葉を見ていただきますと、まず、一つは、「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた」とあります。百人隊長は、イエスさまの方を向いていた、というのです。イエスさまの方を向いて、イエスさまを見ていたのです。しかも、そばに立っていた、というのです。もう一つは、「イエスがこのように息を引き取られたのを見て」とあります。やはり、イエスさまを見ていた。それもイエスさまの最期の姿を見ていた。そして、彼はこう言ったのです。「本当に、この人は神の子だった」。
 私たちは、イエスさまに出会う前、教会に来る前には、それぞれに、神さまという方はこういう方に違いない。神さまとは、こういうものだ、と自分なりの神さま像、神さまのイメージを持っていたかもしれません。しかし、今はそうではないと思います。私たちが以前、持っていた神さまという像、神さまというイメージとは違う神さまを聖書から知らされる毎日なのではないでしょうか。それは、本当に大事なことです。私たちは、聖書から、神さまという方を日々新たに知らされ、また自分自身も神さまによって日々新たにされていくのです。
 ローマの百人隊長は、イエスさまについて、それまでは神でも何でもない、ユダヤ人たちによって告発され、ついには十字架刑に処せられてしまったような哀れな犯罪人としか見ていなかったかもしれません。それが、このイエスという人の最期を見た。この百人隊長にとっては、たった半日のことだったかもしれませんが、この方を前にして、神の子とはどういう方なのか、神さまとはどういう方なのか、そのことを知らされたのです。そして、彼は「本当に、この人は神の子だった」と告白したのです。
百人隊長の信仰告白と言ってもよいこの言葉に先だって、聖書は、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」と神殿での出来事を書いていました。この神殿の幕が裂かれた意味についてはお話ししましたが、誰でも、いつでも、神さまにお会いすることができるようになったということ。神さまご自身が私たちのところにおいでになって出会ってくださること。そのことが、この百人隊長に起こったのです。ユダヤ人でもない、大祭司でもない。異邦人であった人がイエスさまを神の子と告白することができた。告白させていただけたのです。神殿の幕が裂かれたように、神さまに対して頑なだった心の幕が裂かれて、この方こそは神の子と告白させていただけたのです。そして、今、私たちもこの方を神さまであると告白することができた、告白させていただけた。この恵みを感謝したいと思います。

(むすび)
 今日の聖書箇所の最後の言葉をお読みします。
15:40 また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。15:41 この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。
先ほど、百人隊長がイエスさまを見ていたことが書かれていましたが、ここに出てくる婦人たち、イエスさまの女性の弟子とも言える人たちのことが書かれています。彼女たちについても、このように書かれています。「婦人たちも遠くから見守っていた」。彼女たちも、遠くからでしたが、イエスさまを見守っていた、とあります。
この時、イエスさまの弟子たち、イエスさまといつも一緒にいた十二弟子はどうしていたのでしょうか?彼らはこの時には、自分の身を案じて、逃げてしまっていたのです。しかし、この女性の弟子たちは、イエスさまの十字架の死を見ていました。残念なことに、あの十二弟子は、イエスさまの十字架の死を見ることができなかった。イエスさまの十字架の死の証人にはなり得ませんでした。けれども、この女性の弟子たちは、イエスさまの十字架の死を見つめていた。イエスさまの十字架の死の証人となったのです。彼女たちは、十二弟子と比べると、当時、女性ということで低く見られていた、小さな存在として見られていました。しかし、そういう彼女たちが、十字架の死の証人となり、そして、復活の証人ともなったのです。
異邦人である百人隊長、女性たち、この人たちがイエスさまの最期に立ち会い、その証人とされたことを知る私たちは、自分がどんなに小さな者、弱さをおぼえる者であっても、そういう私たちにも、主は自ら私たちに出会ってくださり、私たちと一緒に歩んでくださり、私たちを主のご用のために用いてくださる。そのことをおぼえたいと思うのです。大事なことは、イエスさまを見つめていくことです。私たちもあの百人隊長のように、女性たちのように、イエスさまを見つめていく者でありたいと思います。

祈り
恵み深い主なる神さま
 受難週の時を迎えています。私たちを罪から救い出し、神さまの愛と恵みに生きるために、神さまはその大切なみ子であるイエス・キリストを私たちにお送りくださいましたことを感謝します。
 今日の聖書箇所には、当時、低い者、小さい者とされていた異邦人である百人隊長、女性たちがイエスさまを見つめていたことが書かれていました。百人隊長は、イエスさまを神の子と告白し、女性たちは、イエスさまの十字架の死の証人となりました。
 神さまが、この人たちをご自分の救いのみわざのために用いられたように、私たちも用いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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