
「覆われた者」聖書―創世記9章18~29節 2025年7月27日
聖書―創世記9章18~29節
(はじめに)
毎月第四の日曜日は、このところ旧約聖書の創世記を読み進めています。今日は創世記9章18節以下の言葉をお読みしました。ここには、ノアの物語が書かれています。ノアの物語は、創世記6章からになります。ノアという人がどういう人物であったかということが、6章9、10節に書かれています。
6:9 これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。6:10 ノアには三人の息子、セム、ハム、ヤフェトが生まれた。
ここには、ノアとノアの息子たちのことが書かれていました。ノアについては、「その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」(6章9節)とあります。「神に従う無垢な人」とありますが、口語訳聖書では「ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった」とあり、岩波訳聖書では「ノアはその時代にあって義(ただ)しく、非の打ちどころがなかった」とあります。従来の訳では、正しいとか、非の打ち所がない人となっていましたが、ここで言われていることは、おそらく、私たちが普通考える正しいとか、完全ということではないと思います。ノアも一人の弱さを抱えた人間、不完全な人、欠点のある人だったと思います。しかし、神さまに従うことに努めていた。そこで新共同訳聖書では、不完全な者が、自分を完全に神さまに委ねて、従っていこうとした。そこから、「神に従う無垢な人」と訳したのだと思うのです。
(聖書から)
新共同訳聖書では、今回お読みした箇所について、「ノアと息子たち」という小見出しが付けられています。まず、ノアの息子たちのことが書かれています。
9:18 箱舟から出たノアの息子は、セム、ハム、ヤフェトであった。ハムはカナンの父である。9:19 この三人がノアの息子で、全世界の人々は彼らから出て広がったのである。
ノアの息子たちの名前は、セムとハムとヤフェトでした。この三人の息子のうちの一人であるハムについては、ここに「ハムはカナンの父である」と書かれていて、他の二人の息子たちとは異なり、このような説明がありました。そして、この後も22節には、「カナンの父ハム」と書かれていました。
この章のすぐ後の10章にはノアの子孫のことが書かれています。10章6節にはハムの子孫のことが出ていて、そこには、「カナン」という名前があります。ハムの子孫カナン。そして、このカナンの子孫がカナン人と呼ばれるようになります(10章15~18節)。
そして、それに続いてノアのことが20、21節に書かれていますが、ここに書かれている内容というのは、一言で言いますと、ノアの醜態というものです。
9:20 さて、ノアは農夫となり、ぶどう畑を作った。9:21 あるとき、ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。
ノアは農夫として、ぶどう畑を作り、そして、そこで取れたぶどうでぶどう酒を作ったのでしょう。それを飲んで酔っ払い、天幕の中で裸になった、ということです。これについては、天幕の中で裸になった、ということが問題であったと思われます。というのは、天幕は、神さまを礼拝する場所でした。その場所でノアは酔っ払って裸になった。それは神さまに対して、不敬虔なこと、不信心なことと考えられたようです。
そのようなことで、ここには、無垢なノア、正しい人ノアと書かれていたことをひっくり返すような出来事があったことが書かれているのです。ノアの醜態、晩節を汚したとも思えるノアでした。そのノアに対する息子たちの振る舞いがこの後に書かれています。22、23節をお読みします。
9:22 カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。9:23 セムとヤフェトは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、父の裸を覆った。二人は顔を背けたままで、父の裸を見なかった。
まず、息子の一人、ハムについてはこのように書かれていました。「カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた」(22節)。息子たちにとっては、偉大な父であったかもしれません。その尊敬すべき父がこんな醜態を晒していたのです。ハムは大変驚いて、ショックを受けて、このことを他の二人の兄弟たちに告げています。
そして、他の二人の息子のことですが、セムとヤフェトは、ハムから父のことを聞きました。彼らはそれを聞いてどうしたでしょうか。「セムとヤフェトは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、父の裸を覆った。二人は顔を背けたままで、父の裸を見なかった」(23節)。後ろを向いたまま、つまり、ノアの裸の姿を見ないようにして、歩いて、そして、ノアの体に着物を掛けた。ここには「父の裸を覆った」とあります。ノアは酔っ払って裸になっていました。裸というと、この創世記3章には、アダムとエバが園の中央に生えている木の果実を食べた時のことが書かれています(創世記3章7~10節)。
3:7 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
3:8 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、3:9 主なる神はアダムを呼ばれた。
「どこにいるのか。」
3:10 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
二人は自分たちが裸であることを知り、それを覆った、隠した、ということです。そして、神さまの顔を避けるようになった、自分たちが裸であるので隠れた、ということです。園の中央の木の果実を食べてから、人は裸を恥と思うようになったということです。神さまに、自分たちが裸であるということ。つまり、自分たちのすべてを知られている。そのことを恥ずかしく思い、隠してしまったのです。今日の個所に戻りますが、ノアは天幕の中で裸になっていた。それはノアの恥ずかしい姿です。そういうノアの姿をハムは見てしまった。そして、さらには、セムとヤフェトもハムを通して、父の恥を知ってしまった、ということではないでしょうか。
そればかりか、ハムはそういう父が許せなかったのです。自分が理想を抱いていた父親像が崩されてしまったということでしょうか?そこで、他の二人に父のことを告げ知らせた。これは、告げ口ということでしょうか?ハムにとっては自分の理想から離れていた父、裏切られたような気持ちになってしまい、父に対する怒り、憎しみからの裁きとして、父をさらし者にしようとしたのではないか。そんなことまで考えてしまいますが、私たちはどうでしょうか?他人の罪、あるいは弱さ、恥ずべきこと、そういったことに直面したらどうするでしょうか?ハムと同じように告発者に、あるいは裁き人になるでしょうか?
一方のセムとヤフェトです。もう一度、23節を読みます。「セムとヤフェトは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、父の裸を覆った。二人は顔を背けたままで、父の裸を見なかった」。ここに「父の裸を覆った」とありました。覆った。この覆うということについては箴言にこのような言葉があります(箴言10章12節、17章9節)。
10:12愛はすべての罪を覆う。
17:9 愛を求める人は罪を覆う。
新約聖書にも「覆う」ということが書かれている言葉があります(一ペトロ4章8節)。
4:8 何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。
ハムとセム、ヤフェトの父ノアに対する振る舞いはまったく正反対のものでした。一方は父の裸、これは恥と言ったらいいでしょうか?それを告発する、それを晒そうとした。けれども、一方は父の恥を覆った、というのです。
ハムのような振る舞い、これについては、ハムがどんな気持ちであったのか、分かる気がします。けれども、セムとヤフェトのような振る舞い、どうしてそんなことができたのでしょうか?これについては、私はこんなことを思うのです。セムとヤフェト、彼ら自身が父であるノアにそのように育てられてきた。彼らはノアに愛され、赦されて育てられてきた。またノアから神さまという方がどのような方であるかを聴かされて育てられてきた。そういう彼らは父の恥ずべきこと、弱さと向き合わされた時、自分たちが父から受けてきたように、父から教えられてきたように、父に対しても振る舞ったということではないかと思うのです。
私たちはどうでしょうか?他人の罪、あるいは弱さ、恥ずべきこと、そういったことに直面したらどうするでしょうか?私たちは神さまに愛されている者、神さまに赦されている者。そこからすべてのことを始めていきたいと思います。
(むすび)
酔いがさめ、ノアは息子たちについて、このように言っています。
9:24 ノアは酔いからさめると、末の息子がしたことを知り、9:25 こう言った。
「カナンは呪われよ
/奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ。」
9:26 また言った。
「セムの神、主をたたえよ。
カナンはセムの奴隷となれ。
9:27 神がヤフェトの土地を広げ(ヤフェト)
/セムの天幕に住まわせ
/カナンはその奴隷となれ。」
カナンというのは、最初に言いましたように、ハムの子供、そして、子孫のことです。それについては「カナンは呪われよ/奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ」と言っています。それに対して、セムとヤフェトについては、「セムの神、主をたたえよ。カナンはセムの奴隷となれ。神がヤフェトの土地を広げ(ヤフェト)セムの天幕に住まわせ/カナンはその奴隷となれ」と言っています。
今日お読みしました創世記9章18節以下ではぶどう酒で酔い、天幕の中で裸になっていたノアに対しての息子たちの振る舞いが書かれていました。そして、24節以下では、酔いからさめたノアが言った言葉が書かれていましたが、印象的なのは息子のハム、その子供、子孫カナンについて、「カナンは呪われよ」(25節)と言っていますが、セムたちについては「セムの神、主をたたえよ」(26節)と言われていることです。セムが、ヤフェトがたたえられよ、ではありません。セムの神、主をたたえよ。つまり、ノアは、神さまを賛美しているのです。ノアは天幕で醜態を晒しましたが、セムとヤフェトの愛の振る舞いを通して、彼らの心に根ざしている神さまの愛と赦しに感謝したのではないでしょうか。ノアは神さまを賛美する、神さまを礼拝する生涯を生きた人でした。ノアの物語の最初に書かれていたノアの紹介、「ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」(6章9節)。このことは最後まで変わらなかったと思います。
私たちも神さまの愛と赦しを信じ、受け入れたならば、どんなに自分の罪深さ、弱さをおぼえることがあっても、私たちに向けられた神さまの愛と赦しは変わらないことを信じていきたいと思います。いえむしろ、私たちは自分の罪深さを知れば知るほど、弱さを知れば知るほど、神さまの愛と赦しがどんなに大きなものであるかを知らされていくのです。そして、だからこそ、私たちは日々、悔い改めて生きることができるのです。悔い改めとは、生き方の方向転換ということです。自分の方から神さまの方へ向きを変えて生きるということです。それが神さまに罪を覆われた者、罪を赦された者の歩みです。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
今日は、ノアと三人の子供たちの聖書の個所を読みました。ノアは罪を覆われた者、罪を赦された者であることを知りました。私たちも同じです。私たちは神さまによって罪を覆われた者、罪を赦された者です。そのことは、神さまのみ子イエス・キリストの十字架によってはっきりと示されました。すぐにあなたから離れてしまう私たちですが、日々、悔い改める者、日々、あなたの方へ向きを変えて生きる者でありますように助け、導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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