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冬 陽ざしを浴びる木

「いのちを得るために」マタイによる福音書10章34~39節 2024/ 2/11 SUN.

冬 陽ざしを浴びる木
※今回の礼拝動画は、配信に不具合が生じた為、ご視聴いただけません。
ご了承ください。


聖書―マタイによる福音書10章34~39節
(はじめに)
ここ数年、平和ということを強く意識させられる出来事が世界中のあちこちで起こっています。皆さんも「この世界が平和になりますように」と祈らされる毎日ではないかと思います。そういう私たちにとって、ただいまお読みした聖書には、大変衝撃的なことが書かれています。マタイによる福音書10章34節の言葉です。
10:34 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
「わたし」というのは、イエスさまのことです。イエスさまご自身がこのようなことを言われます。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない」。イエスさまは、平和をもたらすために私たちの世に、私たちのところにおいでになったのではないでしょうか?なぜ、このようなことを主は言われたのでしょうか。
さらに、主は、このようなことも言われます。「平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」。「剣」というと、平和の反対、争い、戦争といったことを連想させます。これが本当にイエスさまの言葉なのでしょうか?

(聖書から)
「平和ではなく、剣を・・・」。今日の聖書の言葉は、この言葉から始まります。35節以下には、このことがもっと具体的に語られています。
10:35 わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。
10:36 こうして、自分の家族の者が敵となる。
イエスさまは、私は敵対させるために来た、と言われました。これと似たような言葉は、この聖書個所の少し前にありました。
10:21 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。
この言葉だけを取り上げて読むと、これも驚くような言葉ですが、どのような文脈の中で語られた言葉であるかを知ることが大事です。これはイエスさまが、ご自分の弟子を世に遣わされる。その時、そこで起こってくることが言われているのです。イエスさまは、ご自分の弟子が「羊」に例えられ(16節)、それはまるで「狼の群れに羊を送り込むようなもの」と言われました。弟子たちは、自分がイエスさまの弟子ということで、家族にも迫害されることがある、ということが言われているのです。
そして、今日の聖書の言葉には、イエスさまが来られることで、平和ではなく、剣がもたらされる、とありました。この「もたらす」という言葉は、「投ずる」、「投げ込まれる」という意味です。イエスさまが平和ではなく、剣を投げ込まれた。これは、イエスさまが、私たちの心に剣を投げ込まれた、ということではないでしょうか。言い換えるなら、私たちに問いかけておられる。あなたがたが平和だと言っている、その平和とは何か?と問いかけておられるのです。
イエスさまは、山上の説教で、平和について、このように語られました(5章9節)。
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
「平和を実現する」という言葉は、「平和を造る」(協会共同訳)とも訳されます。平和というのは、ただ待っているだけでは実現しないのです。平和を造り出すように努めていかなければならないのです。そのために、時には誰かと敵対するとか、葛藤が起こるようなことがあるかもしれません。平和のために、敵対する、というと、何か矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、平和のための戦いというものがあるのです。使徒パウロは、その戦いについて語っています。しかし、その戦いとは、私たちが考える戦いとは異なるものです(エフェソ6章12節)。
6:12 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
「血肉」というのは、人間のことです。私たちは福音のため、平和のために戦う必要がある。しかし、その戦う相手というのは、血肉ではない、人間ではないのです。私たちが戦う相手は、「支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊」とありました。イエスさまの教えてくださった「主の祈り」では、「悪い者」(6章13節)とありました。それは私たちを神さまから引き離そうとするものであり、神さまの愛と義とは正反対のものです。私たちは悪と戦うのです、罪と戦うのです。けれども、私たちの力はあまりにも無力です。「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」(エフェソ6章10節)とあります。主の力によって勝利することができるのです。
続いて37節をお読みします。
10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
35、36節の言葉と合わせて、この言葉を読みますと、家族を愛するな、と言われているように誤解してしまうかもしれませんが、ここには、「わたしよりも父や母を愛する者」、「わたしよりも息子や娘を愛する者」と語られています。父や母を、息子や娘を愛するな、と言われているのではありません。家族というのは、私たちにとっては、かけがえのない、本当に大切な存在です。おそらく、皆さんは、家族を愛することに努めておられることでしょう。ここで言われているのは、その家族を愛する以上に、イエスさまを愛しなさい、ということです。
私たちは、神さまが私を愛しておられる、ということは、聖書から何度も聴いてきたと思います。神さまのみ子であるイエス・キリストが、私たちを罪から救うために、ご自分の命をささげてくださった。それが、神さまの愛です。私たちは神さまに愛されているのです。しかし、私たちはそこで留まってはならないのです。私たちはその先を進まなければなりません。それは、私たちを愛してくださった神さまの愛に応えて生きる。この私が神さまを愛する、ということです。
38節をお読みします。
10:38 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
ここには、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は・・・」とあります。神さまを愛する、神さまのみ子イエスさまを愛する、とは、自分の十字架を担ってイエスさまに従う、ということです。自分の十字架というと、私たちそれぞれに与えられている人生の重荷とか、苦しみと考えるかもしれません。主は、私たちの重荷、苦しみをご存じです。私たちと一緒に担ってくださる方です。私は今までもそのことを信じて、主から励まし、慰めをいただいて歩んできました。詩編55編23節(口語訳、新改訳は22節)には、このような言葉があります。
55:23 あなたの重荷を主にゆだねよ/主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え/とこしえに動揺しないように計らってくださる。
主が支えてくださる。このことを信じて、私たちの重荷を主に委ねていきましょう。そして、今日の個所で言われている「自分の十字架」というのは、私たち一人一人に与えられている神さまからの使命ということです。私たちは、自分の十字架を担って、主に従っていくのです。
今日は、信仰告白、バプテスマ式が行われます。イエスさまに出会い、イエスさまを救い主と信じた方の信仰告白を聴きますが、イエスさまを信じるということは、イエスさまを愛するということ、そして、イエスさまに従うということです。

(むすび)
今日の最後の言葉、39節をお読みします。
10:39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
「自分の命を得ようとする者」とあります。この「得る」という言葉は、直訳的に訳すなら、「見出す」という言葉です。そうしますと、「自分の命を見出す者」ということになります。「見出す」とは、「見つける」とか、「発見する」という意味です。しかし、自分で命を見出すことはできません。神さまなしで命を見出すことはできません。「わたしのために命を失う者」、つまり、イエスさまのために自分の命をささげていく時、命を見つけることができる、命を発見することができる、と主は言われるのです。
イエスさまのために自分の命をささげる。それは、この命は私のものではない。この命は神さまから与えられたもの。だから、神さまのみ心は何か、神さまの喜ばれることは何か。そのことを求めて、神さまのためにこの命を用いていこうという生き方です。そして、その時、私たちは、命を見出すことができるのです。神さまから与えられた命の意味を知り、命を喜ぶ者とされるのです。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
主は、私たちの心に剣を投げ込まれます。自分ではこれが平和だと思っていたこと、これが愛だと思っていたこと、これが正義だと思っていたことに対して、問いかけられます。主の前に立つ時、主が本当の平和を、本当の愛を、本当の正義を示されます。
主は私たちに命を与えてくださり、私たちに生きる意味を、生きる目的を教えてくださいます。主の言葉に聴きながら、主と共に、この人生を歩ませてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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