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「恵まれた者」 マタイによる福音書19章1~12節 2025年8月3日 

恵まれた者 マタイによる福音書19章1~12節 赤塚バプテスト教会(朝・夕)礼拝説教 石堂雅彦牧師

聖書―マタイによる福音書19章1~12節
(はじめに)
19:1 イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。
この言葉から、今日の聖書の言葉は始まります。「これらの言葉」、お読みした聖書の言葉は、マタイによる福音書19章でした。すぐその前の章、18章に書かれているイエスさまの言葉と考えたらいいでしょう。18章には、罪や赦しのことが語られていました。罪と赦し、それは、私たちの歩みの中で、いつも意識されなければならないことです。人と人が共に生きる。家庭で、職場で、社会の中で、教会で、いつも私たちは、罪と赦しの問題に向き合わされているのではないでしょうか。そして、そのことを主に尋ねていく。祈りへと導かれていく。その時、私たちは、信仰が与えられてよかった。神さまを信じる者とされた恵みを知るのではないでしょうか。
19:2 大勢の群衆が従った。イエスはそこで人々の病気をいやされた。
イエスさまのもとに、大勢の群衆が従っていったことが書かれていました。これは、イエスさまのもとに付いてきた、ということでしょう。イエスさまの言葉を聞き、イエスさまの癒しのわざを知り、彼らは主のもとに集まって来たのです。「イエスはそこで人々の病気をいやされた」とありますが、それは、あらゆる病のことだと思います。身体の病のことだけではなく、人格的な病も癒されたのではないかと思います。人を愛せない、赦せない・・・。その時、私たちは、自分が人格的に病んでいること、痛みや傷があることを知ります。そういう私たちは、主の言葉によって癒されていくのです。主との人格的な出会い、交わりを通して癒されていくのです。

(聖書から)
今日お読みした聖書の言葉について、新共同訳聖書の小見出しには、「離縁について教える」と付けられています。確かに、離縁についての話が書かれていますが、この箇所を読んでみますと、「離縁についての教え」ということに留まらない内容のように思えます。3節をお読みします。
19:3 ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。
ファリサイ派の人々の方から、イエスさまに近寄ってきた、ということです。しかし、このように書かれていました。「イエスを試そうとして」。先ほどの大勢の群衆は、イエスさまを求めて近寄ってきました。自分たちの体の弱さ、心の痛み、そういったものを抱えて、主のもとに集まってきました。けれども、このファリサイ派の人々というのは、それとは違います。イエスさまを試そうとして、近寄ってきたのです。そして、主にこのように尋ねます。「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」。
夫が妻を離縁することができるか?という質問でした。そのために、何かきちんとした理由さえあれば、それは律法に適っていること。つまり、神さまに許されていることですか?そういう質問です。ところで、「夫が妻を離縁することは」という言葉ですが、この言葉が別の訳では、「夫がその妻を出すのは」(口語訳)となっています。すると、ここでファリサイ派の人々が言ったことは、夫が妻を追い出すことに正当な理由があるのか?という話になります。この時代、その反対のこと、妻が夫を追い出すということは、ありえなかったそうです。これは、男性の側だけ、夫の側だけの権利のような扱いだったそうです。これに対して、イエスさまはどのように答えられたのでしょうか?イエスさまの言葉が続く4節以下に書かれています。
19:4 イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」19:5 そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。19:6 だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
お読みした言葉からは、イエスさまは、離縁、離婚の是非について直接お答えになっていないことが分かります。イエスさまがお話しなされたのは、結婚のことでした。神さまが人をお造りになり、神さまが二人を結び合わせられた。そのことをお話しになりました。ここでイエスさまが語られたことの鍵となる言葉、キーワードは、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」ということだと思います。
この話を聞いたファリサイ派の人々は、畳みかけるようにこのような質問をしています。
19:7 すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」
彼らはモーセのことを持ち出して話しています。それはつまり、律法では、離縁することは禁じられてはいない。むしろ、離縁状を渡して離縁してもよいと命じられている、と言っています。これは、旧約聖書・申命記24章1節の言葉が根拠となっています。その箇所を読んでみます。
24:1 人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。
このような言葉をもとに、彼らは、律法には、離縁について書いてあるではないか。だから、離縁すること、妻を追い出すことは何ら問題ない、と言っているのです。これに対して、主はこのように言われました。
19:8 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。19:9 言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」
主は、律法に書いてあるから、その通りだ、とは言われませんでした。イエスさまはこう言われました。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない」。「あなたたちの心が頑固なので」とあります。これは、神さまに対して頑固ということです。頑固、頑な。神さまの言われることを聞かないということです。私たちも時々、神さまに対して頑固になる、頑なになることがあるのではないでしょうか。神さまの言うことを聞かなくなる。神さまを信じている、イエスさまが主と言いながら、自分が主になっている、自分が自分の人生の王さまになっている。それが罪ということです。けれども、自分がそういうことになっているとは気づいていない・・・。考えてみますと、私たちは、自分では気づいていない罪の方が多いのではないでしょうか。自分で気づいている罪については、神さま、お赦しください、と祈りますが、気づいていない罪があることさえも気づいていない・・・。神さまに心を向けることがなく、自分のことばかり考えているなら、私たちの信仰の目、霊の目はふさがってしまい、神さまの真理が見えなくなってしまうのです。
今日の話に戻りますが、「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない」。律法は、離縁することを命じてはいません。人間の心があまりに頑固なため、それを許可した、許したというのです。けれども、「初めからそうだったわけではない」とありました。
先ほど、イエスさまが言われた鍵となる言葉、キーワードをもう一度、読んでみたいと思います。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。「人は離してはならない」とあります。ここでは、結婚の話で言われていますが、これは私たちの人生のいろいろなことでも考えることができると思います。人間の、つまり、私たちの思いであるとか、考え、そういったことによって、神さまの思い、神様のお考えをひっくり返してしまうようなことがあるなら、それはとても残念なことです。神さまの願っておられることは何だろうか?神さまの思い、お考えを私たちはいつも尋ねていくことが大事なことです。
イエスさまとファリサイ派の人々のやり取りを聞いていた主の弟子たちはこのようなことを言っています。
19:10 弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。
弟子たちも、ファリサイ派の人々の考えと同じだったのでしょうか?しかし、主が言われた言葉を聞いて、そんな面倒なことなら、妻を迎えない方がましです。一人でいる方がいいです、と言っているようです。イエスさまは、ファリサイ派の人々との対話の中で、夫と妻の関係について、彼らの考えを改めるように語られたと思います。今日の個所からは、当時の夫と妻、男性と女性の関係というのは、まるで夫が、男性が、妻を、女性をもののように扱っているような考えであったことが分かります。現代に生きる私たちからすると、これはとんでもないことだということが分かりますが、二千年前のこの時代では、当然のことのように考えられていたのです。そういう時代にあって、イエスさまは、神さまが造られたお互いであり、神さまが結び合わせたお互いであるということを語られました。「二人は一体となる」とありました。これは上下関係、どちらが上か下か、ということではありません。二人が共に歩む時、互いの人格が築き上げられていくのです。夫と妻、男性と女性の対等な関係が示されているのです。

(むすび)
弟子たちの言葉をお聞きになった主は、このようにお答えになりました。
19:11 イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。19:12 結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」
「この言葉」、それは、12節で語られている言葉のことです。独身でいるということ、そのことは、その方がましだから、ということではありません。「恵まれた者」とありました。ここで使われている言葉には、「賜物」という意味があるそうです。つまり、「独身という賜物が与えられた者」ということです。このようなことを見ていきますと、イエスさまは結婚の恵みについて語られただけでなく、独身の恵みについても語られた、ということが言えると思います。結婚する人、結婚しない人、人それぞれの生き方があります。
結婚ということには、互いの思いが一つであることが必要ですが、双方の思いや考えの違いを経て、独身の道を選ぶということもあると思います。私たちはそれぞれ、その時々に人生の選択をしていくわけですが、そこにも神さまのお考えや思いがあることと受け止め、主の恵みを信じて生きることこそが大事なことではないでしょうか。私たちそれぞれの生き方は異なりますが、互いが「恵まれた者」であること、神さまの恵みによって愛され、生かされている者であることをおぼえて、互いに愛し合い、祈り合う者でありたいと思います。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
私たちの救い主であるイエス・キリストは、一人一人に向き合ってくださいます。主を求めた大勢の群衆に、主を試みたファリサイ派の人々に、主の弟子たちに、そして、私たちに向き合ってくださり、本当に大事なことは何か、必要なことは何かを教えてくださいます。感謝します。
私たちの人生は、人それぞれです。それを互いに比べたり、優劣を競ったりするのではなく、主がそれぞれに与えてくださった「私の人生」として受け止め、その人生に主が伴ってくださることをおぼえ、主の助け、主の守りを祈り、また互いの違いを受け入れ、喜び、互いのためにも祈る者とさせてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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