
【召天者記念礼拝】8月17日(日) 見えないものに目を注ぐ コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章16節~5章10節
聖書―コリントの信徒への手紙二4章16節~5章10節
(はじめに)
今年もこの召天者記念礼拝で先に天に召された方々のご家族、ご親族、ご友人と一緒に神さまを礼拝することができますことを心から感謝します。礼拝の最後に、「召天者をおぼえて」という時を持ちます。召天者の方々の名前をお読みしますので、関係者の方は前にお進みくださり、お花を手向けてください。
(聖書から)
お読みした聖書の言葉は、コリントの信徒への手紙二の4章16節から5章10節です。新共同訳聖書では、この聖書個所について、「信仰に生きる」という小見出しが付けられています。信仰に生きる。召天者の方々は、信仰に生きられた方々です。イエス・キリストを救い主と信じて生きられた一人一人、またイエス・キリストを信じるご家族、ご友人に導かれて、救いの道を求めて生きられた一人一人です。そのことを思いながら、この聖書の言葉に耳を傾けていきたいと思います。
4:16 だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
「だから、わたしたちは落胆しません」。お読みした聖書の言葉は、この言葉から始まります。私たちは落胆しない。なぜ、落胆しないのかというと、これに続く言葉がその理由を教えています。「たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます」。
「外なる人」とありました。私たち人間の体、肉体は、年を追うごとに衰えていきます。どんなに健康を保つようにと心がけていても、衰えていきます。この手紙を書いたパウロという人は、自分の肉体の衰えを感じていたのでしょうか。けれども、落胆しない、と言っています。「わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます」と言っているように、「内なる人」が日々新たにされるからだ、というのです。
先ほどは、「外なる人」とありましたが、今度は、「内なる人」ということが言われています。「外なる人」というのが、私たちの体のこと、肉体のことと言うのなら、「内なる人」とは、何でしょうか?お読みした聖書の4章18節の言葉をお読みします。
4:18 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
「見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます」とありました。「見えるもの」と「見えないもの」。先ほどの「外なる人」と「見えるもの」、「内なる人」と「見えないもの」がそれぞれ対応しているように思います。ところで、見えるものに目を注ぐというのは分かります。けれども、見えないものに目を注ぐとはどういうことでしょうか?見えないものに目を注いでも、意味のないことのように思えます。
見えないもの。皆さんは『星の王子さま』という小説をご存じと思います。サン=テグジュペリというフランス人が書いた小説です。その中の一節にこのような言葉があります。
「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」(『星の王子さま サン=テグジュペリ著 内藤 濯訳』 岩波書店)。
「心で見る」という言葉が印象的です。「かんじんなことは、目に見えない」ともありました。お読みした聖書の言葉に出てきた「見えないものに目を注ぐ」というのも、これと同じです。心で見る。聖書の中に、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタイ5章3節)というイエス・キリストの言葉があります。
心の貧しさ。私たちも、自分の心の貧しさに気づくことがあるのではないでしょうか。物質的な豊かさを追い求めるうちに、自分の心の貧しさに気づかされることがある・・・。例えば、他人に対して、愛の無い言葉を言い放ってしまった。自分のことばかり考えていた。そういう時、自分は何と心が貧しいのだろう、と思うのではないでしょうか。そして、心の豊かさを求めようとする。自分のことばかりを求めるのではなく、他人を思いやる生き方・・・。人間というのは、自分独りで生きる者ではありません。いえ、独りでは生きることはできない者です。私たちは、共に生きる存在です。
さて、「見えないもの」とは何でしょう。今度は、5章7節の言葉をお読みします。
5:7 目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。
「目に見えるものによらず」とありました。見えるものに頼らない。見えるものを拠り所としない。なぜでしょうか?「見えるものは過ぎ去る」。永遠ではないのです。しかし、「見えないものは永遠に存続する」というのです。永遠に存続するもの。ここには、このようなことが言われていました。「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいる」。目に見えるものではなく、永遠に存続するものによって歩む。それは永遠の命を与えるお方イエス・キリストを信頼し、拠り所として生きるということです。本当に信頼できる、拠り所にできる方に出会った人は、幸いな人です。キリストを信じて歩みましょう。
5章10節をお読みします。
5:10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。
5章10節の言葉を読みました。「裁き」とか、「報い」という言葉が出てきますから、この言葉を読むと、うーん、とうなってしまう人がいるかもしれません。今までの自分の生き方はどうだっただろうか?これからはもっとしっかりしないといけない。そういう反省を促される言葉かもしれません。それぞれにこの言葉についての読み方、受け止め方があると思いますが、ここで言われていることは、私たちはみんな神さまの前に自分の生き方を問われるということです。なぜ、神さまに問われるのか、というと、神さまが私たちに命を、人生を与えてくださったからです。命を、人生を与えてくださった神さまは、私たちに、その命を、人生をどう生きてきましたか、と問われるというのです。
ここにおられる方々の中には、自分の家族が、友人がクリスチャンだった、神さまを信じる人だった、という方がおられると思います。もしかすると、こういう疑問を持たれていたかもしれません。なぜ、毎週のように教会に行かなければいけないのか?毎日、聖書を読んだり、お祈りするのか?そんなことは、年に一度でも、二度でもいいではないか。キリスト教とは、何と忙しいというか、勤勉というか、面倒くさい宗教だろう・・・。
なぜ、教会に行って礼拝するのでしょうか。聖書を読むのでしょうか。お祈りするのでしょうか。それは、一言で言うなら、神さまにお会いするためです。神さまとお話しするためです。私たちは、神さまに、自分の人生の歩みを問われるということをお話ししましたが、私たちは、神さまに問われ、また神さまに問う者なのです。私たちは、日々の歩みの中で、神さまから、あなたは今日の日をどのように生きていますか?と問われます。また私たちは、日々の歩みの中で、私たちが、神さまに対して、今日の日をどう生きていったらよいのですか?と問うことができるのです。神さまに問われ、神さまに問い、神さまと会話しながら生きる、神さまとの交わりの中に生きる。それが、信仰によって生きるということです。
(むすび)
最後に、5章1、5節の言葉をお読みして終わりたいと思います。
5:1 わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。
5:5 わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。
「天にある永遠の住みか」とありました。また「ふさわしい者」とありました。ここで言われていることは、私たちの地上の生涯が終わっても、神さまは私たちに帰るところを用意してくださっている、ということです。「天にある永遠の住みか」というのは、天国、天の国のことです。神さまは、私たちを、「天にある永遠の住みか」に住むのに、「ふさわしい者」としてくださった、ということが、ここに言われています。先に天に召された一人一人は、神さまが、この私を、天の国にふさわしい者としてくださった、という恵みを受け取った一人一人です。私たちが天の国に入るために、しなければならないことは何でしょうか?それは神さまの恵みを受け取ることです。神さまの恵みであるイエス・キリストによる救いをこの私に与えられたことだと信じて受け取ることです。恵みを受け取る、救いを受け取る。ただそれだけです。この恵み、救いを受け取る方が新たにありますように心から願っています。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
ただいまは先に天の国に召された方々をおぼえて、召天者記念礼拝を行っています。その一人一人は、神さまの招きを聴き、イエス・キリストの救いを受け取り、地上での生涯を神さまと共に歩み、その歩みを終えて、「天にある永遠の住みか」、「天の故郷」(ヘブライ11章16節)に戻られました。
神さまを頼りとし、拠り所とした一人一人のことを思い、私たちもその後に続く者としてください。私たちの命、人生は神さまが与えてくださったものです。私たちも、神さまと共に生きる者として導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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