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【礼拝説教】2022年8月28日「福音に共にあずかるために」

2022年8月28日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「福音に共にあずかるために」コリントの信徒への手紙Ⅰ 9章19~23節

聖書―コリントの信徒への手紙一9章19~23節
(はじめに)
 先週お読みしました聖書の言葉の中に「わたしは自由な者ではないか」(1節)というパウロの言葉がありました。自由な者。それは自分勝手に生きる者ということではありません。罪から自由にされた者ということです。そういうパウロは今日お読みしました聖書の言葉の中で、このように語っています。
9:19 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。
 ここでは「わたしは、だれに対しても自由な者」と言っています。「だれに対しても」ということですから、人に囚われていないということです。私たちは誰か人に囚われているようなことはあるでしょうか?支配されているといってもいいでしょう。人に支配されている。しかし、パウロは、自分は誰にも囚われていない、支配されていない、と言っているのです。

(聖書から)
 パウロは、自分は罪に支配されていない、また誰にも支配されていない、と言いました。そう言っているのに、その次にこのようなことを言っています。「すべての人の奴隷になりました」。パウロは、自分は自由だ、と言っているのに、すべての人の奴隷になりました、と言っています。何と矛盾したことを言っているのでしょう。ただここで注意してみたいのは、奴隷にされた、とは言っていません。奴隷になった、と言っているのです。つまり、自分から望んで、希望して、奴隷になった、ということです。
 奴隷。それは僕、仕える者ということです。ところで、なぜ、パウロは自分から希望して、奴隷、僕、仕える者になったというのでしょう。同じ19節には、このような言葉が続けられています。「できるだけ多くの人を得るためです」。これは何を言っているのでしょう。イエスさまは福音を宣べ伝えるにあたって、まず、何をしたかというと、ご自分の弟子を求められました。イエスさまはガリラヤの漁師たちに声をかけられました。その時、イエスさまが言われたのが「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ1章17節)ということでした。
 漁師たちの仕事は魚を獲ることでした。その漁師たちに向かって、イエスさまは「人間をとる漁師にしよう」と言われました。魚を獲る漁師から、人間をとる漁師へ。これが福音を宣べ伝えることの目的です。一人の人が神さまの福音を聞いて、受け入れて、神さまに捕らえられる、神さまのものとされる。私たち人間は神さまに造られた者ですから、神さまのものとされる、というのは、神さまに立ち帰る、神さまのもとに帰るということです。
 できるだけ多くの人を得るため。それは一人でも多くの人が神さまのものとされるため、神さまに立ち帰るため。そのためにパウロはすべての人の奴隷になった、というのです。そのことが20節以下には具体的に書かれています。
9:20 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。
 この20節の言葉は同じことを繰り返して言っています。「ユダヤ人」とあり、次に「律法に支配されている人」とあります。ユダヤ人は律法に支配されていました。律法を守らなければ、神さまに救われない、という考えでした。けれども、それならば、誰が救われるのでしょうか?パウロ自身がユダヤ人でした。パウロも律法に支配されている人、律法を守らなければ、神さまに救われない、と考えていました。
 パウロはキリストを信じる者たちを迫害するためにダマスコに向かっていく途中で、復活の主に出会いました。主に出会った時、自分は本当には神さまのことが見えていなかった、知らなかったことに気づかされました。どんなに自分の力で律法を守ることに努めても、守り得ない。つまり、救われない。ただこの方に、イエスさまによらなければ救われないということに気づかされたのです。
 ところで、すべての人の奴隷になった、ということですが、そのことがここに具体的に「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました」、「律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました」と書かれていました。21節には、「律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました」とあり、22節には「弱い人に対しては、弱い人のようになりました」とありました。「律法を持たない人」というのは、ユダヤ人ではない人、異邦人のことです。「弱い人」というのは、8章に出てきました偶像に供えられた肉を食べることで躓いてしまう人たち(8章7~13節参照)のことがパウロの頭の中にあったと思います。
このような人たちについて、パウロは、自分は律法に支配されている人のようになった、律法を持たない人のようになった、弱い人のようになった、と言っています。これはどういう意味でしょうか?この「~のようになった」ということから、思い起こされることがあります。私は牧師の家庭に生まれ育ちましたが、その時代、私たちの群れのバプテスト教会はアメリカのバプテスト教会と福音宣教を協働で行うことに盛んでした。多くの宣教師の先生方が日本の牧師たちと良いチームワークで励んでいました。まだ日本の教会が人的にも、経済的にも自立していないということもあったのでしょう。多くの助けを受けていました。私たちの教会もハイフィル先生という女性の宣教師の方が17年もの長期にわたって、この教会に仕えてくださったことはよくご存じと思います。
私の父が牧会していました金沢の教会には、ランドル先生という女性の宣教師の方がおられました。ランドル先生は日本滞在中、東京の目白ヶ丘教会、そして、金沢教会、東熊本教会と三つの教会に仕えてこられました。私たち夫婦は今から二十年ほど前、引退されて、故郷に帰られたランドル先生を訪ねて、アメリカの南部、アラバマ州のオーバーンという町に行ったことがあります。そこでランドル先生と一緒に先生が所属している地元のバプテスト教会の祈祷会に出席しました。ランドル先生はもうその時には日本での働きを終えて、二十年ほど経っていましたが、ずっと日本の教会の福音宣教のために祈り続けておられることをお話しされました。またランドル先生には、日本で宣教師の働きをされていた他の先生たちのご自宅にも車で連れて行っていただいて、日本宣教の思い出話をたくさんお聞きました。パウロが「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました」、「律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました」、「弱い人に対しては、弱い人のようになりました」と言ったように、宣教師の先生方は、日本に住む人たちを知ること、愛することに努められました。私はその話を聞きながら、宣教師の先生方がどんな思いで日本の地で働きをされたのか、そのことを教えられ、感謝の心でいっぱいになりました。
22節の後半には、「すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです」とあります。パウロはすべての人がイエスさまの救いにあずかるように、と願い、福音宣教に励んだのです。この「何とかして何人かでも救うため」という言葉から、パウロの気持ち、心が伝わってきます。何とかして何人かでも。パウロの福音宣教に向けられた心、宣教師の先生方の心、また私たちの教会を開拓された児玉先生の心、私たちもその後に続く者でありたいと思います。

(むすび)
9:23 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
今日の最後の言葉です。何とかして福音を伝えたい。福音のためならどんなことでもします、とありました。パウロが願っていたこと、それは「わたしが福音に共にあずかる者となるため」ということです。パウロは福音を、イエスさまに救われたことを心から喜んでいました。私はイエスさまに出会ってよかった。救われてよかった。心からそう思っていました。そして、本当に嬉しくて、喜びにあふれて、パウロはこの福音を何とか人々に伝えたい。どんなことでもして伝えたい。そう願ったのです。この福音を自分一人にだけ留めてはならない。私はあの人と、この人と福音に共にあずかりたい。その願い、祈りから生まれた言葉が今日の聖書の言葉です。福音を伝えましょう。福音に生かされている喜びを分かち合っていきましょう。

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