
「真の自由と偽りの自由」 ガラテヤの信徒への手紙 5章1~6節 スティーヴン・クンケル宣教師
みなさん、こんにちは、神さまと赤塚バプテスト教会に感謝します。両親と、東京トレーニングチームの家族がみなさんによろしくと伝えていました。今回の説教は他の前の説教と比べて、ちょっと違っているテーマになりますが、とても大事なテーマです。なぜかというと、信仰生活において、ルールや規則が嫌だと思う人が多いと聞いたことあります。なぜでしょうか。確かに権威の下にあるということは自由な感じはしません。
ところで、私のことをお話ししますと、私はアメリカの宣教団から遣わされて、この日本で主に仕えていますが、実は、100%アメリカ人ではなく、ブラジル系アメリカ人です。私の母がブラジル人で、私はブラジル国籍を持っています。このパスポートを見てください。このパスポートによると、私は確かにブラジル人なのです。ブラジルの歴史についてお話ししますと、ブラジルはポルトガルから独立しました。その日は今日、そうです、9月7日なのです。ブラジルはポルトガル帝国に治められていました。しかし、彼らはポルトガル帝国から独立したかったので、ポルトガルの影響から離れて、新しい国を造ったのです。それが1822年の9月7日です。ブラジル人はその日を覚え、お祝いします。
イスラエルの民もエジプトの奴隷から解放されました。彼らは神さまがお立てになった指導者モーセの導きによって救われたのです。ところが、荒れ野の旅がつらくなって、エジプトを懐かしく思い、エジプトに戻りたくなりました。せっかくエジプトから解放されたのに、どうして奴隷に戻ろうと思ったのでしょう?彼らは神さまの素晴らしい約束の地を受け継ぐために、自由を与えられた人たちとしてその約束を目指すべきでした。実は彼らの問題は私たちの問題と同じなのです。
私たちはクリスチャンとして、罪の支配から解放されました。それは自分の行いによってではありません。イエス・キリストが私たちを罪から解放してくださったのです。私たちはキリストに出会う前は、罪に支配されていました。罪によって、自由ではありませんでした。エフェソの信徒への手紙の言葉によるとこう書いてあります。
「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」エフェソ2:1−3
私たちは、キリストに出会う前は、罪の奴隷になって罪の中を歩んでいました。ところが、次の聖書の言葉にはこのように書かれています。
「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、―あなたがたの救われたのは恵みによるのです―キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」エフェソ2:4−6
ですから、覚えておかなければならないのは、私たちは、今は、キリストにあって、奴隷ではなく、自由な人とされたということです。キリストにあって、新しく造られた者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じました。ですから、再び罪の奴隷にならないようにキリストに従い続けましょう。お祈りします。
(祈り)
人間には、自由があります。それは二つの自由があると言えます。一つは真の自由、そして、もう一つは偽りの自由です。私たちはその自由を選択することができます。真の自由、つまり、神さまに従う自由と、偽りの自由、つまり、神さまを拒否する自由です。自由について、フランス人哲学者であるジャン=ポール・サルトルが有名な言葉を言っています。彼は無神論者でしたが、このように言いました。「人間は自由の刑に処せられている」。人間は自由な存在であり、常に自分で選択し、その結果の責任を負わなければならないという意味です。
偽りの自由についてお話しします。偽りの自由がもたらすものは二つあります。一つは神さまよりも罪を愛するということ、もう一つは神さまに喜ばれると思って、規則やルールに従って生きるということです。
偽りの自由についてさらにお話しします。
神さまを信じていても、偽りの自由に生きている人とはどういう人でしょうか?彼らは神さまに従うのではなく、自分の罪の欲に従っています。彼らにとって、神さまに従うとは、規則やルールを行うことです。そのことによって、自分は神さまの恵みを資格として与えられると考えるのです。このような考えは間違いです。そのような考えはむしろ神さまの恵みを無駄にしてしまうのです。パウロはローマの信徒への手紙でこのように語っています。
「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。」ローマ6:1−2
クリスチャンである私たちが知るべきことは、私たちは自分のものではないということです。神さまの恵みにより、み子キリストの十字架の血によって、罪から贖われた、罪から買い取られ、神さまのものとされたのです。ですから、神さまに喜ばれるように歩み続けましょう。人間は罪に支配されたままでは神さまに喜ばれません。ある時は神さまに従っていても、ある時は神さまから離れている。立派な行いをしても、心は神さまから離れている・・・。それは二重生活をしている状態です。二重生活は神さまには喜ばれません。けれども、私たちは、今は神さまの恵みによって、罪の支配から自由にされ、神さまのものとされましたから、罪に支配された古い生活には戻らず、神さまの約束の光の中を進み続けることができるのです。ですからクリスチャンはいつもこの言葉を信じていくのです。
「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」フィリピ2:12−13
私たちは罪の誘惑に陥ってしまった時、悪魔にそそのかされて罪に陥ったと言い訳をします。しかし、ヤコブの手紙によると、このように書かれています。
「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。 そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」ヤコブ1:14−15
私たちは、自分の欲望によって、罪に陥るのです。それは神さまとの関係が断絶するだけでなく、救われた人としての証にもなりません。その人は偽りの自由に生きているので、本当は自由ではなく、罪の奴隷なのです。罪の結果は死です。けれども、キリストは私たちに本当の自由を与えてくださいますから、その自由によって、罪に対して、「NO」と言い、罪から離れることができるのです。キリストの自由に歩みましょう。
そして、もう一つ、偽りの自由についてお話ししますと、規則と行いを守ることで、神さまを喜ばせようとすることです。けれども、それによって罪の奴隷だけでなく、重荷の奴隷になってしまうのです。パウロがガラテヤの信徒への手紙を書いた理由は、ガラテヤの人たちが、掟を守ることによってではなく、キリストによって救われることを知るためでした。
掟を守ること自体は悪くないと思うでしょう。しかし、キリスト以外に、神の掟を完全に守ることができる人は一人もいないのです。なぜかというと、神さまは完全な方ですから、私たちは神さまのレベルに決して達することができないのです。ヤコブの手紙によると、このように書かれています。
「律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。」ヤコブ2:10
ですから、自由が与えられているのに、再び、罪の奴隷になってしまうのです。一生懸命、規則を守ることで、自分は神様に従っている。自分の熱心さ、努力で神さまの恵みにあずかった・・・。ファリサイ人たちはそのように考えていました。神さまの恵みによって救われたことを喜び、神さまに従うのではなく、自分がどれだけ神さまに従っているかを人に見せ、自慢するために規則を守るのです。ですから、この偽りの自由は、私たちを再び罪の奴隷にさせてしまうのです。
前に説教したことありますが、放蕩息子と他の二つの譬え話を覚えていますか。この例え話から学んだことは、二人の息子たちが愛する父親のもとに立ち返る自由です。弟息子は、放蕩三昧の生活でしたが、父親にゆるされたことを信じて、新しく生きる人になりました。これは神さまの真の自由に生きることを示しています。しかし、兄息子は、自分は父親のために一生懸命にやってきた。それなのにあの弟は!と放蕩して帰ってきた弟をさばき、ゆるさず、受け入れませんでした。これは真の自由を知らず、自分のプライドに捕らえられていることを示しています。
放蕩息子の弟のように、神さまによって罪から解放され、自由にしていただいたことを信じて生きる人生は喜びの人生です。ところが多くの人たちは、自由とは、自分の好き勝手に生きることだと勘違いしています。ある有名な哲学者がこう言いました。「自分がやりたいことをやるのが自由なのではなく、正しいことを選ぶ自由こそが自由なのだ」。もっと詳しく言いますと、「自分がしたいことをするだけが自由なのではなく、正しいと判断したことを選択する自由こそが真の自由である」ということです。罪から救われた私たちは、私たちと人生を一緒に歩んでくださっているキリストの思いを知っていますから、真の自由と偽りの自由を見分けて、正しい選択をすることができるのです。
私たちは、真の自由が与えられましたから、罪の鎖から解放され、新しく生まれ変わった人として、神さまのための使者となるのです。2コリント5:17と20節にこのような言葉が書いてあります。
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」2コリント5:17
そして、次の言葉です。
「ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。」2コリント5:20
私たちは、使者の務めを果たす者として、この自由を罪に迷っている人たちを、本当の道であるキリストに導こうではありませんか。キリストが私たちを真の自由へと導いてくださいますから、罪に迷っている人たちに福音を伝えていきましょう。すでにクリスチャンである私たちも罪に戻るようなことはないように気をつけましょう。私たちはキリストにあって救われた者です。真の自由を生きる者なのです。
お祈りします。
この記事へのコメントはありません。