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【礼拝説教】2021年3月7日「神の国を受け入れる」

2021年 3月 7日(朝・夕)礼拝説教「神の国を受け入れる」マルコによる福音書10章13~16節

聖書―マルコによる福音書10章13~16節
(はじめに)
 お読みしました聖書箇所は新共同訳聖書では「子供を祝福する」という小見出しが付けられています。子供を祝福するというと、日本では、多くの家庭で行われている行事で七五三という式があります。これは子供の成長を願い、お祝いするというものです。私たちの教会でも、生まれたお子さんを祝福する、子供たちを祝福するという式を行っています。それは、今回お読みしました聖書の言葉に子供の祝福のことが書かれていますように、聖書に基づいて、神さまからの祝福をお祈りするという式です。神さまの祝福、今日はこのことについて、聖書から聴いていきたいと思います。

(聖書から)
 13節をお読みします。
10:13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
 ここに「イエスに触れていただくために」とあります。イエスさまに触れていただく。そのために人々が子供たちをイエスさまのところに連れて来ました。この人々は、どういう人たちだったのでしょうか?その子供たちの家族、親であると考えられます。また、当時、ユダヤにおいては、子供たちを養育する僕がいたということですから、その僕たちが子供たちを連れて来たのかもしれません。
 イエスさまに触れていただこうとした。それは自分の、あるいは預かっている子供たちの祝福を祈ってもらおうとした、ということです。祝福。私たちの教会では毎週の礼拝でも、祝福を祈ります。皆さんのお手もとに週報がありましたら、礼拝のプログラムをご覧いただきますと、祝祷というものがあります。礼拝の最後のところです。この祝祷という文字を見ると、祝福の祈りというふうに考えるかもしれません。私も以前はそのように考えていました。礼拝の最後で、牧師は祝福を祈る。礼拝においでになった、あるいは教会に連なる一人一人のうえに神さまの祝福がありますように、と祈る。ところが、ある時、祝祷について学んでいましたら、祝祷というのは、祝福の祈りということではない、とありました。祝祷は祝福の祈りではなく、祝福の宣言であるというのです。ですから、祝福がありますように、と祈るということではなく、あなたがたは祝福されている、神さまに祝福されている。このことを宣言することなのだ、というのです。
 それ以来、私は祝福の宣言として、祝祷を行っています。そして、ただ宣言するだけでなく、これをお聞きになった皆さんが、ああ、私は神さまに祝福されて生きているのだ。そのことを受け取って、祝福の確信を持って歩んで行かれますように、と祈り心を持って、この祝祷を行うようになりました。神さまの祝福をしっかりと受け止めて歩まれますように。ですから、祝祷は宣言であり、そして、やはり、祈りでもあります。
 今日の聖書の箇所に戻ります。自分の子供を、あるいは預かっている大切な子供をイエスさまに祝福していただきたい。そういう思いを持って子供たちを連れて来た人たちがいました。ところが、イエスさまの弟子たちは彼らに対して、このようなことをしたというのです。「弟子たちはこの人々を叱った」。彼らを叱った、というのです。
 なぜ、弟子たちは叱ったのでしょうか?これは想像ですが、弟子たちはイエスさまの多忙な生活を知っていました。私たちの愛する、大切な師であるイエスさまを子供たちのことで煩わせてはならない。弟子たちとしては、イエスさまを思う気持ちから、このような行動に至った、ということです。すると、イエスさまはそのことを知って、弟子たちに、私のことを思って、そうしてくれてありがとう。そういうことになったかというと、まったく違いました。
10:14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
 何と、イエスさまはその様子を見て憤られた、というのです。憤られた。お怒りになったのです。今日お読みしました聖書の箇所はマタイによる福音書、ルカによる福音書にも書かれています。ほとんど同じ内容ですが、違うところがあります。それはイエスさまが憤られた。弟子たちをお怒りになった、ということは書かれていないのです。
 この三つの福音書、マタイ、マルコ、ルカの中で、マルコによる福音書が一番古いと言われています。その最も古いマルコにイエスさまの憤りのことが書かれていて、マタイとルカには書かれていません。マタイとルカはイエスさまが憤られたことを書くことはあえてしなかったのかもしれません。このイエスさまの憤りというのは、激しく憤られた、という意味の言葉だそうです。イエスさまの弟子たちがイエスさまから激しく憤られた。このことを書くのをためらってしまったのかもしれません。
 イエスさまは弟子たちがイエスさまのもとに子供たちを連れて来た人々を叱ったことを激しく憤られ、このように言われました。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」。14,15節にイエスさまの言葉がありますが、その前半のところです。イエスさまは「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」と言われました。イエスさまのところに子供たちを連れて来ることは、イエスさまご自身が望んでおられることなのだ、と言われたのです。
そして、「神の国はこのような者たちのものである」とも言われました。神の国。マタイによる福音書では「天の国」と書かれています。私たちにとっては天国という言葉のほうがなじみがあるかもしれません。イエスさまがここで神の国、天国はこのような者たち、子供たちのものであると言われたのはどういうことでしょうか?私たちが子供というと、純粋無垢というようなイメージがあるかもしれません。子供は罪を知らない、罪を犯さない。だから、天国にふさわしい。イエスさまが言われたのはそういうことだ、と考えるかもしれません。しかし、聖書の舞台であるユダヤではそういう理解はありません。子供は罪深い存在。神さまのこともよく分かっていない。そういう否定的なイメージがありました。そして、私たちも、子供たちのことを考えると、また自分自身の幼いときのことを思い起こすと、確かに子供は純粋無垢な面はあるけれど、ユダヤの子供の理解のように、罪はあるし、神さまのことを分かっていないということは否定できないと思います。しかし、イエスさまはそのことを知ったうえで言われたのです。「神の国はこのような者たちのものである」。
 イエスさまの弟子たち。彼らはイエスさまを愛し、イエスさまに従っていた人たちでした。熱心に神さまを求めて歩んでいた人たちでした。その熱心さのあまり、弟子たちの間では、だれが一番、イエスさまに忠実に従っているか、ということを議論していたようです(9章34節参照)。私たちこそはイエスさまのこと、信仰のことはよく分かっている。しかし、子供たちを連れて来た人たちは、子供たちは何も分かっていない人たちだ。イエスさまはそういう弟子たちの心を知って、激しく憤られたのです。そして、言われたことが次の言葉です。
10:15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
 「子供のように神の国を受け入れる人」とはどういう人のことでしょうか?子供、それは先ほどもお話ししましたように、純粋とか、罪がない、ということではありません。むしろ、小さな者、何も持たない者、肉体的にも、心にも弱さを抱えた者、自分では罪に打ち勝つこともできない者を意味しているのです。そういう人たちは心から神さまを求め、頼るのです。
 イエスさまの山上の説教、それはこのような言葉から始まります。「心の貧しい人々は、幸いである」(マタイ5章3節)。「心」というのは「霊」と訳される言葉です。ですから、霊において貧しい人々と訳すことができます。カトリックの方々が訳したフランシスコ会訳聖書では、この言葉の意味をよく捉えて、「自分の貧しさを知る人」と訳しています。自分の貧しさを知る人とは、別の言葉で言うと、自分に失望した人です。あるいは自分の弱さを知る人と言ってもよいでしょう。その人は自分を頼りにすることはできません。では何を頼りにしたらよいのか。神さまを頼りに生きるのです。今日お読みしました「子供のように神の国を受け入れる人」とは、そういう人のことです。

(むすび)
 イエスさまは弟子たちに語られた後のことが16節に書かれています。
10:16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
 子供たちの家族でしょうか、親でしょうか、それとも子供たちを養育する僕でしょうか。この人たちは子供たちをイエスさまに触っていただきたいと願いました。ところがイエスさまは子供たちを抱き上げた、というのです。イエスさまが全身をもって、子供たちを受け入れられたことが分かります。イエスさまが子供たちをどんなに愛しておられたかが分かります。主は子供たちに手を置いて祝福されました。あなたたちは神さまの祝福を受けている。だから、自分が神さまに祝福された者であることを信じて、歩んで行きなさい。私たちも自分が神さまに祝福された者、このことを信じて、歩んでまいりましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
 今日は神の国を受け入れる人とはどういう人であるかをこの聖書の言葉から聴きました。自分が神の国にふさわしい人だと思う人はおそらく誰もいないと思います。自分を知れば知るほど、罪を知らされるばかりです。
 主は言われました。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。神の国にふさわしいとは思えない私たちですが、主は私たちに神の国を受け入れるということを語られました。また主は「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」とも言われました。ここで言われている「子供たち」とは小さい者、弱さを覚える者、罪に打ちひしがれる者です。そういう者を主はご自分のところに来るように求められました。
 神の国を受け入れる。それは主の招きを受け入れ、主のもとに行くことです。どうか、自分が主に祝福されている者であることを信じて、主と共に生きる人がありますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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