ARCHIVE

アーカイブ

  1. HOME
  2. ブログ
  3. 説教
  4. 「永遠の命を得るために」 聖書―マタイによる福音書19章16~30節 2025年9月14日 

「永遠の命を得るために」 聖書―マタイによる福音書19章16~30節 2025年9月14日 

永遠の命を得るために マタイによる福音書19章16~30節 赤塚バプテスト教会(朝・夕)礼拝説教 石堂雅彦牧師

(はじめに)
 イエスさまのもとに、一人の人が質問に来ました。それはこういう質問でした。「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。永遠の命をどのようにしたら得ることができるか、という質問です。皆さんがこのような質問を受けたら、どのように答えるでしょうか?

(聖書から)
 もう一度、16節をお読みします。
19:16 さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」
 「さて、一人の男が」という言葉で始まっています。別の聖書の訳では、「すると、一人の人が」(聖書協会共同訳)となっています。今日の聖書の言葉は、そのすぐ前の聖書の言葉(13~15節)と一緒に読むと、理解しやすいと言われています。そのすぐ前の聖書の言葉には、イエスさまが子供たちを祝福されたことが書かれていました。
19:13 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。19:14 しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」19:15 そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。
 そしてこの続きが、今日お読みした聖書の言葉です。イエスさまは、子供たちのことをこのように言われました。「天の国はこのような者たちのもの」。天の国は、このような者たち、つまり、この子供たちのものだと言われたのです。このイエスさまの言葉を聞いて、なるほど、本当にその通り、と思われた方がおられると思います。けれども、それは、子供というのは、純粋無垢だから、悪いことも考えたことはないだろうし、罪もないから・・・と思われたのなら、イエスさまが言われた意味とは違います。なぜかというと、この聖書の舞台である当時のユダヤにおいては、子供というのは、純粋無垢とか、罪がないというイメージはありませんでした。むしろ、愚かであるとか、無知というようなイメージ、否定的なイメージでした。子供というのは、天の国からは遠い存在と考えられていました。そういう子供たちを、神さまの言葉を一生懸命に学ばせて、天の国に入ることができるように育てなければ、と子供たちの親は考えたのです。ところが、イエスさまは、まだ十分成長していない、聖書のお勉強もしていない、そういう子供たちのことを「天の国はこのような者たちのもの」と言われたのです。これは、イエスさまの言葉を聞いた人たちには、とても驚きであったと思います。
 この話、この出来事に続いて、この一人の人の質問がありました。もしかすると、イエスさまが言われたこの言葉を聞いていて、それを受けて、「永遠の命」のことを質問したのかもしれません。子供たちのことを、天の国はこの子供たちのもの、とイエスさまが言われた。それでは、私はどうなのだろうか?私も天の国に入ることができるのだろうか?この人は少し心配になって、イエスさまに質問したのかもしれません。それがこの質問です。「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。
 天の国、永遠の命、これは同じことが言われていると考えていいでしょう。この人は、どんな善いことをしたら、永遠の命を得ることができるのか、天の国に入ることができるのかを考えていたのです。イエスさまは、この人の質問に対して、このようにお答えになっています。17節をお読みします。
19:17 イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」
 イエスさまは、この人の質問を誠実に、よく聞いておられました。この人が永遠の命を得るためにどのように考えているかをしっかり受け止められて、このように言われたのです。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである」。どんな善いことをすれば、永遠の命を得られるのでしょうか?それに対して、「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか」と言われました。何か突き放したような言い方にも思えます。また、その後には、「善い方はおひとりである」とも言われました。これはどういうことでしょうか?
 永遠の命を得るために、どんな善いことをしたらよいのでしょうか?この問いに対して、イエスさまは、なぜ、「善いこと」について聞くのか?大事なことは、「善い方」でしょう、と言われたのです。なぜなら、永遠の命は、自分の力で一生懸命、「善いこと」をすることによって得るものではない。永遠の命は、「善い方」である神さまが与えてくださるもの。これがイエスさまの答えです。
 イエスさまは、このようなことも言われました。「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」。永遠の命は神さまが得させてくださるもの。だけど、あなたは、自分が善いことをすることで永遠の命を得ることができると思っている。それなら、自分の力で掟を守ってみてごらん。
 この後のイエスさまとのやり取りを読んでみます。
19:18 男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、19:19 父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」19:20 そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」
 「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」。何か自信に溢れているような言葉です。私は掟をみんな守ってきました。何も欠けることのないほど、一生懸命、掟を守ってきました。そう言っているように思えます。
 イエスさまは、この人に言われました。
19:21 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
 イエスさまに尋ねたこの人は、自分は何も欠けたところがないほど、真面目に、一生懸命、掟を守ってきました、と答えたのです。イエスさまはそれに対して、「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と言われました。この人は、このイエスさまの言葉に対しても、私はあれもしました、これもしました、と答えたのでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。
19:22 青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
 この人は、自分が完全には掟を守っていなかったことに気づいたのでしょう。自分にはどうしてもできないことがあることに気づいたのでしょう。「ああ、私は完全には掟を守っていなかった。私は永遠の命を得ることもできないのだ・・・」。そう思って、自分に失望し、がっかりし、主のもとから立ち去って行ったのではないでしょうか。
 イエスさまは、弟子たちにこのようなことを言われました。
19:23 イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。19:24 重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
 イエスさまは、イエスさまのもとから立ち去って行った人のことを言われたのでしょうか?自分の持ち物を手放すことができなかった人のことを指さして、お金持ちが天の国に入るのは難しい、と言われたのでしょうか?私は、イエスさまはそういう意味で言われたのではなかったと思います。ここでは、「金持ち」と言っておられますが、これは、自分は何かを持っていると思う人、自分は立派に生きてきた、正しく生きてきた、自分は天の国に入るのにふさわしいと思っている人のことではないでしょうか。イエスさまは、そういう人が天の国に入るのは難しい、と言われたのではないでしょうか?
 ここで最初に触れた子供の話を振り返りたいと思います。イエスさまは子供たちのことをこのように言われました。「天の国はこのような者たちのもの」。繰り返しますが、子供というのは、当時のユダヤにおいては、愚かで無知な者と考えられていました。善いこともできない。何も持たない・・・。そういう者のことをイエスさまは、「天の国はこのような者たちのもの」と言われたのです。
 イエスさまと質問した人のやり取りを聞いていた弟子たちはこのように言っています。
19:25 弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。
 これは弟子たちの率直な言葉です。いったい、誰が救われるのでしょうか?イエスさまは弟子たちに言われました。
19:26 イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。
 ここでイエスさまが「彼らを見つめて」とあるように、弟子たちを見つめて言われた、というのは印象的です。イエスさまが弟子たちに本当に言いたかったこと、伝えたかったことがこのことなのです。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」。
 弟子たちは「だれが救われるのだろうか」と言いました。誰が救われるのか?救いを得るのは、永遠の命を得るのは、天の国に入るのは、人間にできることではないのです。人間がどんなに神さまの掟を守ろうと頑張っても、善いことに励んでも、できることではないのです。しかし、「神は何でもできる」。しかし、神さまが、私たちを救ってくださる。
 これを聞いたペトロはこのようなことを言いました。
19:27 すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」
 ペトロには、自分は何もかも捨てて主に従ってきた、という自負心があったようです。あの真面目な青年ですら、自分の持ち物を捨てることができなかったけれど、私はすべてを捨てて、あなたに従ってきました。私たちは何かその報いをいただくことができますか?ペトロは、イエスさまが言われたことを理解していなかったようです。しかし、私たちも、このペトロのようなことが度々あるのではないでしょうか。私は、聖書の言葉を学んできたし、神さまのことはよく分かっている。イエスさまに従ってきた。けれども、本当は、分かっていないことだらけ。でもそういう弟子たちを、そして私たちを、主は見つめておられるのです。私たちの不完全さも、罪深さもすべて知っておられるのです。だからこそ、主は言われたのです。「人間にできることではないが、神は何でもできる」。そういうあなたを神さまが救ってくださる。

(むすび)
 28節以下をお読みします。
19:28 イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。19:29 わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。19:30 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
 「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」。この言葉を、どんなに信仰歴が長くても、きちんと聖書を理解していなければ、神さまのために善い行いをしていなければ、後から信仰を持った人に追い抜かれてしまう。だから追い越されないように頑張らなければならない!そんなふうに理解する方がおられるようです。しかし、ここで「後にいる多くの者」というのは誰のことかというと、最初にお話しした子供たちのことを言っているのかもしれません。何も持たない、何もできない子供たち。また、イエスさまのところに永遠の命について尋ねた人のことかもしれません。自分は完全には掟を守っていなかった、と自分に失望して主のもとを去ってしまった。けれども、後になって、救いは自分の力ではない。神さまの恵みによることだ、と気づいて、思い直して、主のもとに立ち帰ってきたかもしれません。このように、私たちが、本当に神さまの前に立つ時、自分は決して、「先にいる多くの者」ではなく、「後にいる多くの者」の一人であることを知るのです。何も誇るものがない、欠けの多い、不完全な私。自分の力で救いを得ることもできない私。そんな私だけれど、神さまに愛されて、赦されて、神さまの恵みによって救いに入らせていただく者とされた、天の国に入らせていただく者とされた。そのことをおぼえる時、私たちの心から感謝と喜びが沸き上がって、これからもこの方についていこう!従っていこう!そう思えたなら、幸いです。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
私たちは救いを求める者です。救われるためには何をしたらよいのか?と考えます。イエスさまのもとに救いについて尋ねた人がいました。善い行いに努めて生きてきた人でした。しかし、主の前に立つ時、不完全な自分であることに気づかされました。
私たちも主の前に立つ時、不完全な自分であることに気づかされます。そして、そういう自分に失望し、がっかりします。けれども、それが信仰の始まりです。自分ではなく、神さまに希望を置く。それが神さまを信じるということです。
主の前に立つ時、自分の不完全さ、罪深さしか見えません。しかし、そういう私を愛し、赦し、救いへと導いてくださる神さまを、神さまの愛を見る者としてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。

関連記事

記事一覧
カテゴリー
アーカイブ
月を選択