
「私たちが願うことは?」マタイによる福音書20章17~28節 2025年10月12日
(はじめに)
マタイによる福音書は後半の個所になります。イエスさまは、ご自分の弟子たちにこのようなことを言われました。
20:17 イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。20:18 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、20:19 異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」
エルサレムへの道、それは、このイエスさまの言葉が示しているように、十字架への道ということでした。ここで注目したいのは、イエスさまは、ご自分の弟子たちの中でも、十二人の弟子たちだけを呼び寄せて言われた、ということです。誰にでも言われたのではなくて、十二人の弟子たちだけに言われたのです。
私たちが、聖書の言葉を読む時、聖書の読み方というのもいろいろありますが、私たちがイエスさまを信じる信仰を持って読む時、イエスさまは、私たち一人一人に語りかけられるのです。十二弟子に語りかけられたように、主は、私たち一人一人にも語りかけられるのです。大事なことは、私たちが、主に心を開くということです。主の語りかけを聴いていきましょう。
(聖書から)
イエスさまが、十二人の弟子たちに語られたことをもう一度、読んでみますと、「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する」ということでした。主が十字架におかかりになる。そればかりか、主は三日目に復活されると言われました。
イエスさまが、弟子たちに十字架と復活について語られたのは、これで三度目でした(一度目-16章21~28節、二度目-17章22、23節)。一度目の時には、弟子の一人であるペトロが主に向かって、このように言いました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(16章22節)。二度目の時は、「弟子たちは非常に悲しんだ」(17章23節)と書いてありました。
それでは、三度目はどうだったのでしょうか。同じ内容の記事がマタイによる福音書以外にも、マルコによる福音書、ルカによる福音書にもあります。ルカによる福音書には、このようなことが書かれていました。「十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである」(ルカ18章34節)。十二人の弟子たちは、イエスさまの言われたことが分からなかった、ということです。分からないというだけでなく、その言葉の意味が隠されていた、ということです。ルカによる福音書でも、イエスさまの十字架と復活の予告の記事が一度目、二度目も書かれています。二度目の時には、このようなことが書かれていました。「弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった」(ルカ9章45節)。「彼らには理解できないように隠されていた」とあります。
私たちが、聖書を読み続けていく時に、気づかされることがあります。ある聖書の言葉について、ずっと前に読んだ時には理解できなかったのに、今になって、理解できるようになった。そういうことがしばしばあるのではないでしょうか。注解書を開いて、歴史的なこと、地理的なことを調べても、それでもなかなか分からない。けれどもこの聖書の言葉が今になって分かるようになった。以前は、何か自分には隠されていたようなことが、見えていなかったようなことが、明らかにされていった、見えるようになってきた・・・。そういう経験をされている方はおられるのではないかと思うのです。
マタイによる福音書の今日の個所に戻ります。ここには、ルカによる福音書のようなことは書いていませんが、この後の20節以下を読んでいきますと、イエスさまの言われたことをなぜ、弟子たちが分からなかったのか、何によって弟子たちには隠されていたのか、そういったことが分かります。20、21節をお読みします。
20:20 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。20:21 イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」
ゼベダイの息子たちの母とその二人の息子。これは誰のことかというと、イエスさまの十二人の弟子たちの中の二人、ヤコブとヨハネのことです(4章21節、10章2節)。母と二人の息子たちがイエスさまのところに来て、ひれ伏し、あることを願おうとしました。イエスさまは、願っていることは何か?とお尋ねになると、息子たちの母はこのように答えました。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」。
この母は、十二弟子たちに主が語られた言葉を聞いていたのかもしれません。イエスさまの十字架と復活。主は復活され、王座にお着きになる。その時には、私の息子たちを、一人はあなたの右に、もう一人はあなたの左に座らせてください、とお願いしたのです。すると、イエスさまはこのように言われました。
20:22 イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、20:23 イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」20:24 ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。
「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」と言われました。おそらく、二人の息子たちの母親は、天の国で、イエスさまの最も近くに私たちの息子を座らせてください、という素朴な願いだったと思います。この願い自体は、間違ったものではなかったと思います。私たちもこれと変わらないような願いを抱いているのではないでしょうか?この地上の生涯を終えたら、天の国では、イエスさまの近くで憩う者となりたい。イエスさまを信じる人なら、誰もが願うことではないでしょうか。
「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」。このイエスさまの言葉は、あなたの願いは間違っている!そういう否定的なことは言われていないように思います。主が言われたことは、自分が願っていることがどのようなことであるか分かっていない、ということです。ですから、イエスさまは、あなたがたが願っていることについて、教えてあげよう、と説明されるのです。
この後、イエスさまはこのようなことを言われました。「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」。二人の弟子は「できます」と答えました。そして、イエスさまは「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ」と言われました。注解書などを見ると、イエスさまの言われた「杯」というのは、イエスさまが受けられる苦難、苦しみのことだと説明されています。けれども、この時、弟子たちは、そのことが分かっていたのでしょうか?私は、弟子たちは分からないままに、何か勢いで「できます」と答えてしまったのではないかな?と思います。でも、イエスさまは、そういう彼らのことを知りながら、言葉を続けたのだろうと思います。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ」。
弟子たちは、この時には何も分かりませんでしたが、確かにイエスさまのお受けになる苦難、苦しみを彼らも受けることになるのです。私たちもそういう歩みではないかと思います。私たちの信仰の歩み、イエスさまのことも、信仰のことも何が何だか分からない、はっきりしない・・・。しかし、主を信じて歩む中で、イエスさまを信じるとはどういうことなのか、後になって、少しずつ、身を持って知らされていくものなのではないでしょうか。
イエスさまは、ご自分の右と左に、すなわち、イエスさまの近くにいさせてほしい。その願いを受け止め、それはどういうことなのかを弟子たちに教えてくださいました。
20:24 ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。
イエスさまがお話しされるその前に、十二弟子の中の他の十人の弟子たちが腹を立てた、ということが書かれていました。これは想像ですが、「俺たちのことを出し抜いて、自分たちだけ、イエスさまのそばに行こうと思っていたのか?けしからんやつだ」。そういうことでしょうか?でもヤコブとヨハネも、他の弟子たちも、願っていることは同じようなことだったと思います。彼らは、お互いに競い合っていました。誰が一番偉いか?そういうことを考えながら、主の弟子として歩んでいました。なぜなら、ある時、弟子たちはイエスさまにこういう質問をしています。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」(18章1節)。
(むすび)
イエスさまのそばにいることと、天の国で偉くなるということは、弟子たちの願いでした。イエスさまはそのことについて、ここで教えてくださいました。
20:25 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。20:26 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、20:27 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい。一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい。これが、イエスさまの教えです。天の国の教えです。私たちは、この世の、人間の視点、目から見て、偉い者とはこういう者だ、上に立つ者とはこういう者だ、と考えると思います。イエスさまが言われたのは、神さまの視点、目から見て、偉い者、上に立つ者とはこういう者だ、と教えられたのです。皆に仕える者になりなさい、皆の僕となりなさい。そんな人生、生き方は馬鹿らしいと思われる方があるかもしれません。けれども、なぜ、イエスさまがこのようなことを言われたのかというと、最後にイエスさまはこのように言われています。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」。つまり、イエスさまご自身が、皆に仕える者、皆の僕として来られたのです。イエスさまの右と左に座る、イエスさまについていく。それは、イエスさまと同じように私たちも歩む、イエスさまと同じように私たちも生きるということなのです。これは、強制ではありません。誰かに強いられてすることではありません。私たち一人一人が自分で選択していく、選び取っていくことです。自分の生き方、歩みについて、自分はどのようにしたらいいだろうか?み言葉に聴きながら、イエスさまとの交わり、対話の中で、何か示されることがあったら、決断することができたら幸いです。イエスさまと一緒に歩むことがどんなに恵みであるか、気づかされるなら幸いです。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
イエスさまの弟子たちは、イエスさまと寝食を共にしながらも、イエスさまの言葉、歩みを見たり、聞いたりしながらも、イエスさまの心を知ることができないままでいました。私たちもイエスさまを信じていると言いながら、イエスさまのことを知らないだらけの者です。そういう私たちが、日々、生きておられる神さま、イエスさまに出会って、私たちの心を覆っているものが取り除かれて、本当に知るべきこと、見るべきことを教えてください。イエスさまは僕として、仕えるためにこの世に、私たちのところにおいでになりました。イエスさまが歩まれたように、私たちも歩むことができますように導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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