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【礼拝説教】2022年6月12日「退いて生きる」

20220年6月12日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「退いて生きる」マタイによる福音書4章12~17節

聖書―マタイによる福音書4章12~17節
(はじめに)
 先週の礼拝では、説教の初めにペンテコステ、聖霊降臨日についてお話ししました。教会によっては、先週の礼拝では、ペンテコステの出来事が起こったことが書かれている聖書箇所から説教が語られた教会もあると思います。使徒言行録2章1~4節には、その様子がこのように書かれています。
2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
 聖霊が降ったとき、イエスを主と信じる者たちは「聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」とあります。他の国々の言葉とあります。他の国々の言葉で何が語られたかというと、使徒言行録2章11節には、「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」とあります。これは語られた言葉を聞いた人たちの反応です。様々な国の言葉で神さまの偉大な業、これは福音です。様々な国の言葉で福音が語られたのです。そして、今、この出来事は更に拡がって、私たちの国の言葉でも福音が語られています。聖霊によって今や世界中で福音が語られていることを喜びたいと思います。また聞いた言葉、福音を信じて生きる人たちが起こされるように祈っていきましょう。

(聖書から)
 今日お読みしました聖書の箇所では、イエスさまが福音宣教を始められたことが書かれていました。新共同訳聖書の小見出しは「ガリラヤで伝道を始める」と付けられています。
12節をお読みします。
4:12 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。
 ヨハネというのは、3章に出てきました洗礼者ヨハネ、バプテスマのヨハネのことです。ヨハネはなぜ捕らえられたのか、というと、14章にそのことが書かれています。14章3節に「実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた」とあります。ヘロデというと、イエスさまがお生まれになった時、幼子のイエスさまの命を狙ったヘロデを思い起こされる方があると思いますが、そのヘロデはヘロデ大王と言われる人物で、ここに出てくるヘロデというのは、その息子でヘロデ・アンティパスという人です。ヘロデ・アンティパスは自分の兄弟フィリポの妻を自分の妻にしたのです。そのことを知ったヨハネはヘロデ・アンティパスの結婚は不当な結婚であり、神さまの律法に反することであると批判しました。ヨハネはそのことで当時、ガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスによって捕らえられることになりました。
 ヨハネが捕らえられたという話はイエスさまにも伝わりました。そのことについては先ほどお読みしましたように、「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」と書かれていました。「ガリラヤに退かれた」というと、イエスさまはヨハネが捕らえられたのを聞いて、自分の身に危険が及ばないように、ガリラヤに退かれた、お逃げになったのだ、と考えるかもしれません。しかし、ヨハネを捕らえたヘロデ・アンティパスはガリラヤの領主でしたので、そのガリラヤに逃げても、意味はありません。
私たちが今日読んでいるマタイによる福音書では、イエスさまがガリラヤに退かれた、と書かれていましたが、マルコによる福音書にはこのように書かれていました。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き」(マルコ1章14節)。マルコでは、ガリラヤへ行った、と書いてあるのに、マタイでは、ガリラヤに退いた、と書いてある。マタイの方は言葉の使い方を間違ったのでしょうか?いいえ、そうではありません。マタイはある意味を持って、このように書いたのです。
同じマタイによる福音書2章には、この「退く」という言葉と、新約聖書の原語であるギリシア語では同じ言葉が使われている箇所は二つあります。その二つの箇所を読んでみます。
2:14 ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、
2:22しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、
 「エジプトへ去り」とありました。この「去る」という言葉が「退く」と同じ言葉が使われています。イエスさまがお生まれになった時、主の天使が夢でイエスさまの父ヨセフにエジプトへ逃げるように、と言われたので、その言葉を聞いて、父ヨセフ、母マリア、幼子イエスさまの家族はエジプトへ去る、退くことになったのです。
 「ガリラヤ地方に引きこもり」とありました。この「引きこもる」という言葉と「退く」がやはり同じ言葉が使われています。イエスさまの父ヨセフは、ヘロデ大王が死んだ後、もう幼子のイエスさまの命は狙われることはない、と思ったら、今度はヘロデ大王の息子アルケラオがユダヤを治めていると聞いて恐れました。そういうヨセフに再び夢でお告げがありました。それを聞いて、ヨセフ一家はガリラヤ地方に引きこもった、退いたのです。ちなみにアルケラオというのは、ヘロデ・アンティパスの兄です。ヘロデ大王の跡を継いで、兄のアルケラオがユダヤを治め、弟のヘロデ・アンティパスがガリラヤを治めていました。
 このように、マタイによる福音書では、「退く」という言葉が大事な意味を持つ言葉として使われています。ただいまお話ししました2章では、主の天使の言葉として語られた、神さまからの伝言、神さまの言葉を聞いて、イエスさまの家族はある時はエジプトに退き、ある時はガリラヤ地方に退きました。この家族は退くことによって守られたのです。
 すると、この退くということ、それは単に逃げるということではなく、神さまのもとに逃げるということになると思います。イエスさまは神さまのもとに逃げて、そこでみ言葉を、生きる力をいただいて、福音宣教を始められたのではないでしょうか。私たちも退いて生きる。神さまのもとに逃げる。そして、神さまのもとで神さまの言葉をいただき、神さまから生きる力をいただき、そこからすべてのことを始める者でありたいと思います。
 13節をお読みします。
4:13 そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。
 イエスさまがナザレを離れた、というのは、ご自分の生まれ故郷を離れた、家族から離れた、ということを意味します。イエスさまはガリラヤのカファルナウムの町に住まわれ、そこから、神さまの福音を宣べ伝えることを始められました。イエスさまが故郷を離れた、家族を離れた、ということを読みますと、この後のイエスさまの弟子の招きの記事と重なることがあります。イエスさまが漁師たち、ペトロやアンデレ、ヤコブ、ヨハネをご自分の弟子として招かれた時、彼ら漁師たちは網を捨てて、舟を捨てて、家族を捨てて、主に従っていきました。それに先だって、主ご自身が故郷を捨てて、家族を捨てて、神さまにお仕えになったことが分かります。
 14節からは、旧約聖書の言葉が引用されています。この引用箇所は、イザヤ書8章23節から9章1節です。
4:14 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
4:15 「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、
4:16 暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
 ガリラヤのことが「異邦人のガリラヤ」と言われています。ガリラヤは、神の民を自称するユダヤ人からは、さげすまれていたところでした。異邦人が多く住んでいたところであり、ユダヤ人と異邦人との混血の人たちが多くいたことから、ガリラヤの地に住む人たちは純粋ではない、純血ではない人たちとして低くみられ、「異邦人のガリラヤ」と言われていました。しかし、その地にイエスさまは住まわれたのです。そして、そのガリラヤから、光を見ることができた、光が射し込んだ、とイザヤ書は語っています。さげすまれていた、低くみられていたガリラヤから、福音宣教は、イエスさまの救いのみわざは始まったのです。

(むすび)
 ところで「暗闇に住む民」、「死の陰の地に住む者」とは、誰のことでしょうか?ガリラヤの人たちのことと言えるでしょう。ガリラヤの人たちに光が与えられたのです。しかし、それだけではありません。「暗闇に住む民」、「死の陰の地に住む者」、それは私たちのことでもあるのです。イエス・キリストを知らない時、私たちは罪と死の支配にありました。そういう私たちのところに主は光としておいでになったのです。主は語られます。17節をお読みします。
4:17 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
 イエスさまの福音宣教の第一声はこの言葉でした。「悔い改めよ。天の国は近づいた」。悔い改めるというのは、方向転換するということです。生き方を改めるということです。自分の方を向いて生きていた私たちは神さまの方を向いて生きるのです。神さまが私たちに求めておられることは何か、そのことをみ言葉に聞きながら歩む生き方です。
 「天の国は近づいた」とありました。天の国、天国というと、一般的には死んだ後に入るところと考えられることが多いですが、聖書が示す天の国は、天の国は近づいた、とあります。これは救い主イエス・キリストが私たちのところにおいでになった、ということです。ですから、私たちは、私たちのところにおいでになったイエスさまを私たちの人生に受け入れるだけでよいのです。イエスさまを受け入れるならば、今、私たちは罪と死の支配から、天の国に生きる者、神さまの愛と義に生きる者へと導かれるのです。それが福音です、喜びの知らせです。イエスさまを受け入れ、イエスさまと共に歩みましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
  イエスさまはガリラヤの地に退かれ、そこから福音宣教が始められました。ガリラヤの地は当時のユダヤの人たちにとっては、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれ、さげすまれていた、低くみられていたところでした。しかし、そこから福音宣教は始まりました。
 「暗闇に住む民」、「死の陰の地に住む者」とは誰でしょうか。私たちは自分がそのような者であるとは気づいていませんでした。しかし、真実を照らす光によって、私たちは本当の自分の姿、罪と死に支配されている自分を知らされました。
「悔い改めよ。天の国は近づいた」と主は語られました。罪と死に支配されている私たちを救うために主はおいでになりました。私たちを主の方を向いて生きる者にしてください。主は私たちを変わることなく愛しておられ、共に歩んでくださっています。主の救いを心から感謝します。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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