
「真理に歩んでいる人」ヨハネの手紙二1~6節 2025年10月19日
(はじめに)
先月まで、礼拝の説教では、ヨハネの手紙一から共に、み言葉を聴いてきました。ヨハネの手紙一には、その続きがあります。ヨハネの手紙二、そして、ヨハネの手紙三です。この二つの手紙は、ヨハネの手紙一と比べると、短い内容です。それで、ヨハネの手紙一に添えて送られた手紙ではないか、という説もあります。またヨハネの手紙一とは、別の人が書いたものではないか、という説もあります。いずれにしても、はっきりしたことは分かりませんが、この三つの手紙は、教会にとって大事な文書であるとして、聖書に、つまり、正典に収められました。私たちは、これらの手紙を、私たちの教会にも書き送られ、語りかけられたものと受け止めて読んでいきたいと思います。
(聖書から)
まず、この手紙の1節をお読みします。
1:1 長老のわたしから、選ばれた婦人とその子たちへ。わたしは、あなたがたを真に愛しています。わたしばかりでなく、真理を知っている人はすべて、あなたがたを愛しています。
この手紙の送り手について、「長老のわたしから」とあります。ヨハネの手紙一では、「長老」という言葉は出て来ませんでしたが、この手紙、そして、ヨハネの手紙三には、その手紙の初めに、「長老のわたし」とあります。このことから、ヨハネの手紙というのは、長老ヨハネと言われる人物が書いたものだと言われてきました。
次に、この手紙の送り先です。「選ばれた婦人とその子たちへ」とありますので、ある特定の人たちに書き送られた手紙であると考えられますが、この「選ばれた婦人」というのは、固有名詞、名前が出てこないことから、特定の個人ではなくて、どこかの教会のことを指していると理解されてきました。私も、その理解を受け入れたいと思います。そうしますと、「その子たち」というのは、その教会に連なる一人一人のことになります。ヨハネの手紙二、この手紙も、ヨハネの手紙一と同じく、教会に書き送られた手紙と考えたらよいかと思います。
1節の後半には、「わたしは、あなたがたを真に愛しています」とあります。この言葉から、心から愛していることが分かります。また、この「真に愛しています」という言葉は、別の訳の聖書では、「真理の内に愛しています」(聖書協会共同訳)と訳されています。そして、「わたしばかりでなく、真理を知っている人はすべて、あなたがたを愛しています」と続いて書かれています。
ここに「真理」という言葉が出てきました。真理とは何でしょうか?私の手元にある国語辞典で調べてみますと、「本当の事。間違いでない道理。正当な知識内容」(岩波国語辞典第五版)とありました。日本語の真理というのは、今言ったような意味ですが、この聖書に出てくる真理とは何でしょうか?それは、一般的な意味の真理ではありません。神さまの真理ということです。神さまの真理について、ある先生は、このように説明しています。
「イエス・キリストによって現された神の真実。・・・知恵のない者に知恵を授け、愛の足りない者に十字架の主を見上げさせ、失いかけた愛をみことばの語りかけによって再び燃え立たせてくださる神の導きの真実」(遠藤勝信牧師)。
私たちも、神さまの真理を知りました。イエス・キリストが、この私のために十字架にかかって死んでくださった。私たちは、神さまの前には一人の罪人に過ぎませんが、イエスさまが私たちのすべての罪をご自分がお受けくださいました。イエスさまが十字架におかかりになったのは、私たちを罪から救うためだったのです。十字架の出来事を通して、神さまは私たちにご自分の愛を示されたのです。神さまの真理、それは、イエス・キリストの愛であり、イエス・キリストご自身のことです。
イエスさまがお示しくださった十字架の出来事。私たちは、神さまが、この私をご自分の命をささげてまでして愛してくださった。神さまの愛を知らされたのです。ですから、「真理を知っている人」とは、十字架の愛を、神さまの愛を知っている人ということです。
真理ということについて、続く2節にも書かれていました。
1:2 それは、いつもわたしたちの内にある真理によることで、真理は永遠にわたしたちと共にあります。
「いつもわたしたちの内にある真理」、「真理は永遠にわたしたちと共にあ」る。先ほどの神さまの真理の説明から考えますと、これらの言葉は、いつも私たちの内には、神さまの愛がある。神さまの愛は私たちと共にある、ということができます。
けれども、私たちは、自分自身を見つめてみると、果たして、自分には愛があるのだろうか?神さまの愛が、自分の命をささげるほどの愛があるだろうか?という疑問が湧いてきます。これについては、どう考えたらいいのでしょうか。私たちには、神さまの愛があるでしょうか?いいえ、私たちには、そのような愛はありません。私たちは、自分には愛がない、そのことを認めなければなりません。
神さまの愛について、パウロはコリントの信徒への手紙一13章で、このようなことを書いています(一コリント13章4~8節)。
13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
13:8 愛は決して滅びない。
お読みしたのは、「愛の章」と言われる聖書個所です。ここに書かれている愛とは、神さまの愛です。私はこの聖書の言葉を読むたびに、自分にはこのような愛がないことを知らされます。私には、このような愛はない。けれども、「いつもわたしたちの内にある真理」、「真理は永遠にわたしたちと共にあ」る。私たちの内には、神さまの愛がある、イエス・キリストがおられる。神さまの愛は、イエス・キリストは、永遠に私たちと共にある。それは、今お読みした「愛の章」に書かれているこの神さまの愛、十字架の愛によって、私たちは愛されている。そればかりか、愛のない私たちに、神さまの愛が与えられたということです。私たちは、このことを信じるのです。
3節にもこのように書かれています。
1:3 父である神と、その父の御子イエス・キリストからの恵みと憐れみと平和は、真理と愛のうちにわたしたちと共にあります。
「恵みと憐れみと平和」とあります。神さまは、私たちを愛しておられます。私たちには愛がないこと、愛せない、愛さない。本当に弱い私たちであることもご存じです。そういう私たちを神さまは憐れまれ、恵みとして、愛を与えてくださいました。恵みというのは、それにふさわしくもなく、資格も何もないのに、与えてくださるという意味です。そのことを知る時、私たちの心に湧き上がってくるものがあります。それが、平和です。別の訳では、平安と訳されています。神さまがこの私を愛しておられる、神さまはこの私と共におられる。だから大丈夫、生きていくことができる。その安心、それが平和、平安です。
4節をお読みします。
1:4 あなたの子供たちの中に、わたしたちが御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました。
長老ヨハネは、大変嬉しく思った、と言っています。この「大変うれしく思いました」というのは、「私はとても喜んでいます」(聖書協会共同訳)とも訳されます。ここには、ヨハネの喜びが書かれています。では、ヨハネは、何を喜びとしているのでしょうか。「あなたの子供たちの中に、わたしたちが御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる人がいるのを知って」とあります。神さまの掟の通りに、真理に歩んでいる人。「歩む」というのは、「生きる」ということです。神さまの真理に生きている人がいる。そのことを知って、私は大変嬉しい、とても喜んでいる、と言っているのです。
ある牧師先生は、ヨハネの喜びの言葉の陰には、悲しみがあった、と言っています。どういうことかというと、真理に歩んでいない人がいる。真理に生きていない人がいる。せっかく、イエスさまが十字架におかかりになって愛を示されたのに、その愛に生きようとしない人がいる。そのことをヨハネは深く悲しんでいた、というのです。イエスさまを信じているという人。その人は、イエスさまの十字架の愛を知っているはずです。でも、その愛に生きようとしない。それはヨハネの悲しみなのです。そして、私たち教会の悲しみでもあるのです。私たちは、お互いが神さまの愛に生きることができるように、お互いのために祈っていきましょう。神さまの愛を忘れないように、神さまの愛から離れないように祈っていきましょう。
5、6節をお読みします。
1:5 さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです。1:6 愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです。
掟とあります。あまり、現代では馴染まない言葉です。別の訳では、戒めとか、命令と訳されています。掟、戒め、命令、それは私たちにとってはあまり好ましくない言葉です。けれども、聖書ははっきりと語ります。神さまは私たちに、神さまの掟に、戒めに、命令に従うようにと。では、その掟とは何かというと、ここにはこのように書かれています。「互いに愛し合う」こと、「愛に歩む」ことです。これが、私たちに与えられた神さまの掟です。
(むすび)
ヨハネの手紙一で学んできたように、ヨハネは繰り返し、神さまの愛を語っていきました。ヨハネの手紙一に語られていた掟、愛の掟について、幾つかお読みします(一ヨハネ3章23節、4章9~11節)。
3:23 その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。
4:9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。4:11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。
愛ということが繰り返し語られていました。私たちの愛、私たち人間の愛は、すぐに消えてなくなるようなものです。好き嫌いや気分で愛せたり、愛せなかったり、自分に不利益があれば、すぐに失われてしまいます。しかし、聖書が教える愛、神さまの愛は、好き嫌い、気分、そういうもので無くなるようなものではありません。私たちの愛とは違い、神さまの愛は決して無くなることはありません。
無くならない、とは、変わらない、ということでもあります。無くならない愛、変わらない愛です。その愛を神さまはご自分のみ子によって示されました。私たちは、その愛で愛されています。そればかりか、私たちは、その愛をいただいたのです。だから、あなたもその愛で愛せよ、と主は私たちに語られます。愛せよ、愛しなさい、とは、こういう意味です。あなたは、神さまの愛を知っている、いただいている。だから、あなたも神さまの愛によって生きることができる。神さまの愛に生かされている私たちは、神さまの愛に生きる者でありたいと思います。お祈りいたしましょう。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
真理に歩んでいる人、神さまの愛によって生きている人、そのことが今日の聖書に語られていました。私たちには愛はありません。神さまのお示しになった愛を知りませんでした。しかし、イエス・キリストの十字架によって、その愛が私たちに示されました。
イエス・キリストを心に受け入れるなら、その人は、神さまの愛に生きる者とされます。神さまが私たちをそのような者として導いてくださいます。私たちはそのことを信じて、どうぞ、この私を神さまの愛に生きる者としてくださいますように、と祈りつつ、歩む者としてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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