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「信仰の訓練」創世記12章10~20節 2025年10月26日 

信仰の訓練 創世記12章10~20節 赤塚バプテスト教会(朝・夕)礼拝説教 石堂雅彦牧師

(はじめに)
  アブラム、後にその名前はアブラハムとなります。これは神さまから命じられての改名です。創世記17章5節に「あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである」とあります。アブラムからアブラハム、アブラムという名前に「ハ」という言葉が加えられるわけですが、アブラハムという名前は、「多くの国民の父」という意味です。この「ハ」というのは、「ハモン」、これは「多く」という意味ですが、ここからきているということです。神さまは、多くの国民の父とされたアブラハムを用いて、救いのご計画を始められたのです。
 今日の聖書個所に戻りまして、お読みしました創世記12章には、アブラムの新しい人生の始まりについて、書かれています。新しい人生の始まり、それは自分で思い立って、さて、今日から新しく生きよう!そう考えて始まったことではありませんでした。この章の1節にありますように、「主はアブラムに言われた」、これがアブラムの新しい人生の始まりです。神さまが語られた言葉に従って、アブラムは歩み出した。神さまの言葉によって始まった。それが、アブラムの新しい人生の始まりでした(4節)。私たちも神さまの言葉から始めるのです。神さまの言葉によって新しい一歩、新しい一日を始めていくのです。

(聖書から)
 お読みしました聖書は創世記12章10節からです。この箇所について、新共同訳聖書は「エジプト滞在」という小見出しを付けています。関根正雄という旧約聖書学の先生は、ご自分が訳された聖書の翻訳で、この箇所について、「サライの冒険」という小見出しを付けています。冒険とありますように、まさにアブラムとサライの夫婦、そして、同行した人たちの旅というのは、冒険のようなものでした。1節には「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい」とあります。私たちはこれを読みますと、神さまが示す地に行くというのは何と素晴らしいことか、と考えるかもしれません。しかし、その神さまが示す地とはどこなのでしょうか。新約聖書・ヘブライ人への手紙11章8節をお読みします。
11:8 信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。
 ここには「行き先も知らずに」とあります。アブラムたちは、この時点でどこに行くのか知らなかったのです。それなのに、住み慣れた地を離れて、主の言葉を頼りに出て行ったのです。本当に冒険のようなものでした。創世記12章4節には「主の言葉に従って旅立った」とあります。このアブラムの旅というのは、私たちの旅でもあると思います。私たちも先のことは分かりません。私たちの人生の歩みはどのようなものになるだろうか?どんなことが起こるだろうか?見当も付きません。しかし、アブラムが歩み出したように、私たちも主の言葉に従って、主の言葉を頼りに歩み出していきたいと思うのです。
 10節をお読みします。
12:10 その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした。
 9節には、ネゲブ地方に移ったことが書いてありますので、その地のことを指しているのでしょう。主の言葉に従って旅立った。すると、さっそく困難なことが起こりました。それはその地に飢饉があったということです。イエス・キリストを救い主と信じた。ところが、信じてすぐに試練に遭った。神を信じる信仰とはどういうものなのだろうか?信じてみて良かったのだろうか?バプテスマを受けて間もなく、ご本人、あるいは家族に試練があると、信仰が揺れ動いてしまった。そのように言われた方がありました。アブラムも神さまの言葉を信じて、従って歩んできたのに、どうして、こんなことが起こるのだろうか?と信仰が動揺してしまったと思います。
 アブラムは自分の家族など、多くの同行者がいましたから、これは何とかしなければならないと考えたでしょう。10節後半から書かれていますように、エジプトに下り、そこに滞在することにした、というのです。このエジプトの地は肥沃な土地に恵まれ、農業も発達していたということです。この地に滞在することが最良の判断と考えて、エジプトに向かったのでしょう。ところが、ここで気になることが書かれています。11節以下をお読みします。
12:11 エジプトに入ろうとしたとき、妻サライに言った。「あなたが美しいのを、わたしはよく知っている。12:12 エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、わたしを殺し、あなたを生かしておくにちがいない。12:13 どうか、わたしの妹だ、と言ってください。そうすれば、わたしはあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう。」
 アブラムには一つの心配がありました。それが今お読みしたことです。妻のサライは美しい人で、自分がその夫であることが分かると、自分は殺されるかもしれない。そこで、サライに自分の妻ではなく、妹であると言ってほしい、と願うのです。そうするならば、自分はサライのゆえに幸いになり、命も助かるというのです。
 アブラムは自分の命を守るために、このような策を考えました。アブラムという人は飢饉だというと、それを逃れるためにエジプトに行こうとし、自分の身を守るために妻を妹と偽ろうとしました。処世術に長けた人物だったと想像します。しかし、ここで気になることと、私が言ったのは、このやり取りの中に、神さまのことが何も出てこないということです。それはアブラムがこの危機について、神さまに祈るとか、神さまの言葉に聴くということよりも、自分の考えを優先させた、ということを示しているのではないでしょうか?
 このことは私たちも注意しなければならないことです。教会の計画を立て、活動を行う。しかし、神さまの言葉に聴くということがおろそかにされている。祈ることも軽んじられている。ただひたすら、自分たちの考え、思いを通していこうとするだけになっているならば、どうでしょうか?信仰生活には、大きな前提があるのです。一人一人が語り、行う前にするべきことがあるのです。それはみ言葉を聴くということ、主に祈るということです。共にみ言葉を聴き、共に祈る。そのようにして、神さまのみ心を知ろうと努める、神さまのみ心に従おうと努めるのです。それがあっての教会形成であり、教会の働きです。
 アブラムは神さま抜きで飢饉対策を、自分を守るための策を考えたのでしょうか?14~16節をご覧いただきますと、アブラムの考え通りに事が進んでいるように見えます。しかし、ここでも気になるのは、「サライはファラオの宮廷に召し入れられた」(15節)とあることです。これは19節にありますように、エジプトの王ファラオの妻として召し入れられた、ということです。これは神さまの目に正しいことでしょうか?また16節には「アブラムも彼女のゆえに幸いを受け、・・・」とありますが、これらのことを一変するようなことがこの後起こります。
12:17 ところが主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた。
 今日お読みしました箇所の中では初めて、「主」という言葉が出てきます。つまり、ここで初めて神さまのことが出てくるのです。神さまはアブラムの行なったことをご覧になっていました。そこで神さまはあることをなさった、というのです。もう一度、17節をお読みします。「ところが主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた」。ファラオと宮廷の人々に災難が遭った、というのです。そして、ファラオはなぜ、このようなことが起こったのか、その原因を知り、アブラムに訴えます。
12:18 ファラオはアブラムを呼び寄せて言った。
「あなたはわたしに何ということをしたのか。なぜ、あの婦人は自分の妻だと、言わなかったのか。12:19 なぜ、『わたしの妹です』などと言ったのか。だからこそ、わたしの妻として召し入れたのだ。さあ、あなたの妻を連れて、立ち去ってもらいたい。」
12:20 ファラオは家来たちに命じて、アブラムを、その妻とすべての持ち物と共に送り出させた。
 その原因は、アブラムの行なったことでした。アブラムが自分の妻を妹と偽って、ファラオに召し入れさせたこと、それがファラオと宮廷の人々に恐ろしい病気を罹らせた原因でした。このことで、アブラム一行はエジプトを出なければならなくなりました。アブラムとしては、また人間的には良い知恵、アイディアであったかもしれません。しかし、それは神さまの目には適わないことでした。そこで神さまはこのようにして、アブラムたちが神さまを忘れ、離れ、罪に陥ってしまわないように助けられたのです。

(むすび)
 私たちもこのアブラムのような間違いを犯してしまうようなことがあるかもしれません。そのようなことに陥らないように、いつも神さまの言葉に聴いていくことに努めたいと思います。アブラムとサライ、彼らは最初にお話しましたように、多くの国民の父、また多くの国民の母となる人たちでした。神さまはご自分の救いのご計画のために、彼らが罪に陥って、信仰の旅を中断してしまうようなことがないように、彼らの罪を示し、赦し、立ち直らせて、再び歩みを始めさせたのです。そして、今、私たちも救いのご計画の中にある一人一人です。神さまは私たちのこともアブラムやサライのように、救いのご計画を担う大切な一人一人として扱っておられます。そういう私たちですが、間違いを、罪を犯してしまいそうになる。神さまから離れ、自分勝手に歩もうとしてしまう。その時、神さまの厳しい語りかけがあるかもしれません。戒められることがあるかもしれません。しかし、それは神さまが私たちを信仰の旅を歩ませるための訓練であることをおぼえたいと思います。私たちの歩みの一つ一つを神さまの言葉に尋ねながら、祈りつつ、聴きながら、共にこの信仰の旅を歩んでまいりましょう。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
神さまはアブラムを救いのご計画のために用いられました。しかし、アブラムは完全無欠の人ではありませんでした。欠けのある、一人の罪人でした。そういうアブラムを主は信仰の訓練によって、真に主に従う者へと導いてくださいました。私たちも欠けのある、一人の罪人に過ぎませんが、そういう私たち一人一人も、主は救いの働きのために用いてくださいます。どうぞ、私たち自身が、主のご用のために私をお用いください、と祈りつつ、主にある歩みをさせてくださいますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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