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「福音の前進のために」フィリピの信徒への手紙1章3~14節 2025年11月30日 

福音の前進のために フィリピの信徒への手紙1章3~14節 赤塚バプテスト教会(朝・夕)礼拝説教 石堂雅彦牧師

(はじめに)
 今年も世界バプテスト祈祷週間を迎えました。私たちは、この一週間、祈りのカレンダーに基づいて、祈りを合わせてまいりましょう。
 お読みした聖書の個所は、フィリピの信徒への手紙1章3~14節です。この手紙は、「喜びの手紙」とも言われます。けれども、この手紙の書かれた背景を知っていくと、この手紙を書いたパウロにとっては、喜べるような状況ではなかったようです。それなのに、この4章からなる手紙の中で、「喜び」という言葉が十回も出てきます。これはとても不思議に思えます。今日お読みした聖書の言葉の中でも、「喜び」という言葉が出てきます。4節に「あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています」とあります。喜び、それも、「いつも喜びをもって」とあります。いつも喜ぶことなどできるでしょうか?

(聖書から)
 もう一度、3、4節をお読みします。
1:3 わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、1:4 あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。
 まず、パウロは、神さまに感謝していると言っています。何を感謝しているかというと、「あなたがたのことを思い起こす度に」とあります。パウロはフィリピの教会の人たちに、この手紙を書き送りました。フィリピの教会の人たちのことを思い起こすたびに、神さまに感謝するというのです。私は、この言葉を読んで、自分自身に当てはめて考えてみました。私は、赤塚教会の人たちのことを思い起こすたびに神さまに感謝する。神さまが、この教会に人々を呼び集めてくださって、キリストの体として共に歩むように導いてくださっている。このことを感謝する。私もパウロのように感謝したいと思います。
 そして、もう一つのことは、「あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています」ということです。フィリピの教会の人たちのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈っている。私にとっては、赤塚教会の人たちのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈っている、ということです。ではなぜ、感謝できるのか、なぜ、喜んで祈ることができるのか、というと、5節にその理由が書かれています。
1:5 それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。
 ここにパウロの感謝の理由、喜びの理由が書かれていました。「あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているから」。ここに「最初の日から」とあります。これは、「あなたがたが〔キリストを信ずるに至った〕はじめの日から」(岩波訳)と別の訳では、補足して訳されています。イエスさまを信じている皆さんそれぞれの信仰の始まりから、イエスさまを信じた最初の日から、今まで、今日まで、ずっと福音にあずかってきたことをパウロは、神さまに感謝し、これを喜びとしているのです。
福音にあずかる。この「あずかる」という言葉は、「交わり」を意味する言葉です。ですから、私たちが、ただイエスさまを信じている、というだけでなく、イエスさまとの交わりに入れられている、ということです。信仰とは、私たちがイエスさまとの交わりに入られて、その交わりの中で生きている、生かされているということなのです。そのことをパウロは、神さまに感謝している、神さまがそうさせてくださったことを喜んでいる、というのです。
 続く6節には、このようなことが語られています。
1:6 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。
 「あなたがたの中で善い業を始められた方」。私たちの主であるイエスさまは、あなたがたの中で、つまり、フィリピの教会の人たちの中で、また、私たちにとっては、この赤塚教会の中で、善い業を始めておられるというのです。善い業というのは、何でしょうか?例えば、福音を宣べ伝えることで考えてみましょう。私たちは、イエスさまの福音を宣べ伝えよう、と励みます。でも、ここに書かれているように、福音を宣べ伝えるのは、私たちだけではありません。「あなたがたの中で善い業を始められた方」とあるように、イエスさまが福音を宣べ伝える働きを始めてくださったのです。それでは、私たちは何者か、というと、コリントの信徒への手紙一3章9節の言葉を読んでみます。これは女性連合の標語として掲げられている言葉です。口語訳聖書では、「わたしたちは神の同労者」、新共同訳聖書では、「わたしたちは神のために力を合わせて働く者」。私たちは神さまの同労者、神さまのために力を合わせて働く者なのです。善い業を始められた方は、「キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださる」。イエスさまが再びおいでになる日、主の日は救いの完成の日、それがパウロの確信です。
 12~14節は、「福音の前進」ということが語られています。
1:12 兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。1:13 つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、1:14 主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。
 今日の話の最初に、パウロは、この手紙の中で、「喜び」ということを繰り返し語っているけれども、喜べるような状況ではなかった、ということをお話ししました。パウロの当時置かれていた状況というのは、福音を宣べ伝えることで、捕らえられ、監禁されていたということでした。これを聞いた人たちはどう思ったでしょうか?パウロは囚われて、監禁されてしまった。これで福音宣教は行き詰ってしまうのだろうか・・・。人々は嘆いていたのでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。「主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになった」というのです。これは不思議なことです。普通に考えるなら、恐れおののいてしまって、み言葉を語り伝えることを止めてしまうのではないでしょうか。
 もう一度、この聖書の言葉を見ていただきますと、「主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得」とあります。パウロが捕らわれているのを見た、というのです。この「見た」というのは、肉眼で、パウロが捕らえられた場面を見た、ということではないと思います。彼らは、パウロが捕らわれているのを信仰の目によって見たのです。この信仰の目で見るということはとても大事なことです。
 パウロが病を得て、その癒しを祈った時、神さまから示されたことをパウロはこのように語っています(二コリント12章9、10節)。
12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
 パウロは、自分の病が癒されるように、何度も祈りました。その病が福音を宣べ伝えるためには、妨げになるのではないか?と考えて、祈ったのではないかと思います。すると、主はこのように言われたというのです。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。主がパウロに示されたこと、それは、「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」ということでした。ここで言われている「力」というのは、神さまの力ということです(口語訳は「わたしの力」)。パウロの弱さの中で、神さまの力が発揮されるということが言われているのです。この言葉を受けて、パウロはこのように語りました。「わたしは弱いときにこそ強い」。私は自分の弱さをおぼえる時、そこに生きて働かれる神さまの力があることを信じると言ったのです。これが、信仰の目で見るということです。人間の視点で見るのではなく、神の視点で見るということです。

(むすび)
 「主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになった」。「わたしの捕らわれているのを見て」。パウロが捕らわれ、監禁されているのを知った人たちは様々な反応があったと思います。失望落胆した人もいると思います。しかし、その中には信仰の目で見た人たちがいたのです。弱さの中でも、苦しみの中でも生きて働かれる神さまの力を信じて、立ち上がった人たちがいたのです。
 キリスト教会の歴史は、苦難の歴史でした。しかし、その弱さ、苦しみの中に生きて働かれる神さまの力を信じた人たちが、それにもかかわらず、福音を宣べ伝え続けたのです。戦争の足音が聞こえるこの時代、それにもかかわらず、私たちは主の平和を伝えます。罪と悪がはびこるこの時代、それにもかかわらず、私たちは主の愛と義を伝えます。なぜ、そうするのかというと、私たちの中に、私たちの間に生きておられる主が共におられるからです。この方が導いてくださることを知っているから、信じているからです。パウロは、フィリピの信徒への手紙1章の後半でこのようなことを語っています(29、30節)。
1:29 つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。1:30 あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。
 パウロが体験した「喜び」とは、苦しみが無くなることではありませんでした。むしろ、苦しみの中の喜びと言ったらよいでしょう。私たちの人生には苦しみが伴います。生きていくうえでのいろいろな苦しみがあります。私たちが主に従って歩む時にも苦しみが伴います。それはなぜかというと、この世は罪が支配しているからです。神さまの平和、神さまの愛と義に生きる時、そこには、苦しみが伴うのです。しかし、その苦しみを主は知っておられる。その苦しみを主が共に担っておられる。聖書が教える喜びとは、そこで知ることのできる喜びです。福音が前進しますように祈りつつ、歩みましょう。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
「わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」とパウロは語りました。パウロが捕らえられ、監禁されたこと、それはキリストのために受けた苦しみであることを知った人たちは、「恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようにな」った、と書かれていました。
今日は、世界バプテスト祈祷週間の特別礼拝を行っています。福音宣教のために遣わされている一人一人の働きの報告を聞きました。救いの喜びをもって、ますます福音が前進しますように導いてください。
アドベントを迎えています。私たちを罪から救うために、神さまのみ子がこの世にお生まれになりました。み子イエスさまを一人でも多くの方々が知り、自分の人生にお迎えすることができますように導いてください。主の平和が、主の愛と義がこの世を支配しますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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