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聖書の画像 板橋の教会

救われた者として生きる(二ヨハネ7~13節) 【週報巻頭言】2025年12月7日

気をつけて、わたしたちが努力して得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい。だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません。その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます。(二ヨハネ8、9節)

「わたしたちが努力して得たものを失うことなく」とありました。「努力して得たもの」というと、これはキリスト教信仰とは違うのではないか?と考える方があるかもしれません。確かに、私たちの努力によって、救いを得るということはありません。この「わたしたちが努力して得たものを失うことなく」という言葉をリビングバイブルという聖書の意味を分かりやすく訳した聖書の訳では、このように書かれていました。「これまでの労苦が水のあわとならないよう」。これらの言葉から考えられるのは、「努力して得たもの」というのは、救いそのもののことが言われているのではなく、救われた者のその後の歩みのことが言われているようです。せっかく、イエスさまの救いにあずかって、ここまで歩んできたのに、その労苦が水の泡になってしまわないように、という意味で考えたらいかがでしょうか。

一方、救いと努力ということは、まったくかけ離れたことではありません。フィリピの信徒への手紙2章12節には、このような言葉が書かれています。

だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。

ここには、「自分の救いを達成するように努めなさい」と書かれています。救いと努力、どう理解したらよいのでしょうか?ここには、救われるように努めなさい、とは書かれていませんが、「自分の救いを達成するように」とあります。私たちは、イエスさまを信じた今、救いにあずかっているのです。けれども、その救いを達成するように、というのです。これはどういうことかというと、私たちは、イエスさまによって罪から救っていただいた。しかし、そこで完成、そこで終わりではないのです。救いをいただいた者は、今度は、救われた者としてどう生きるか、という段階に入って行くのです。救われた者としてどう生きるか?それは、聖書から聴いていくのです。神さまが私たちに求められていることは何か。旧約聖書・アモス書5章6節に「主を求めよ、そして生きよ」とありました。神さまご自身を求めるのです。神さまのみ心は何ですか?と尋ねながら、神さまの言葉に聴きながら生きるのです。それが、「自分の救いを達成するように努めなさい」ということです。

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