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「ぶどう園の息子」マタイによる福音書21章33~46節 2026年3月8日 

ぶどう園の息子 マタイによる福音書21章33~46節 2026/ 3/ 4 赤塚バプテスト教会(朝・夕)礼拝説教 石堂雅彦牧師

(はじめに)
 イエスさまは言われました。「もう一つのたとえを聞きなさい」(33節)。ここに「聞きなさい」とあります。つまり、イエスさまは、ご自分の語られることを聴きなさい、と言われたのです。私は、この聖書個所から説教の準備を始める時、この言葉に立ち止まらされました。私が、聖書の言葉を読む時、主は、この私に、「あなたは、私の言葉を聴きなさい」と言われているように思いました。主は私に語ってくださる。私は聖書を読む時、み言葉を聴く時、このことをいつも心に刻み込んでいたいと思いました。

(聖書から)
 お読みした聖書個所は、新共同訳聖書には、「「ぶどう園と農夫」のたとえ」という小見出しが付けられています。この箇所を読んでいきますと、ぶどう園、農夫だけではありません。このたとえ話には、いろいろな人たちが出てきます。33節から読んでみます。
21:33 「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。21:34 さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。21:35 だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。21:36 また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。21:37 そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。21:38 農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』21:39 そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。
 お読みしたのは、イエスさまのたとえ話の内容です。「ある家の主人」というのは、ぶどう園の主人ということでしょうか。自分の所有するぶどう園のために、用意周到な準備をして、農夫たちにそれを貸して、旅に出たということです。主人は、農夫たちを信頼して、出かけたのでしょう。彼らが、ぶどう園で実ったぶどうを収穫したら、その収穫したものを受け取らせるために、僕たちを送ったということです。
 ところが、ここで思いがけないトラブル、事件が起こります。主人が送り出した僕たちが農夫たちによって、ひどい目に遭わされたのです。一人は袋叩きにされ、一人は殺され、もう一人も石で打ち殺された。それでも、主人は他の僕たちを送り出しましたが、その人たちも同じような目に遭わされたというのです。
 主人は、自分の僕たちがことごとくひどい目に遭わされたということでしたが、今度は、自分の息子をぶどう園に送り出しました。その箇所を読んでみます。「そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった」。
 何ともひどい話です。主人の息子までも殺されてしまったというのです。何と陰惨なたとえ話でしょうか。この話をされ、イエスさまは最後に聞いている人たちに問いかけます。
21:40 さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」
 ぶどう園の主人は帰って来たらどうするか?という問いです。自分の僕たち、そして、自分の息子を殺された主人は農夫たちをどうするか?すぐに分かりそうな問いです。聞かれた人たちはこのように答えています。
21:41 彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」
 ところで、自分の僕たち、そして、自分の息子を殺された主人は農夫たちをどうするか?このことをイエスさまから問われた人たちについて、「彼ら」とありますが、「彼ら」とは誰のことでしょうか?お読みした聖書個所から少し前の個所を振り返ってみると、「祭司長や民の長老たち」(23節)のことを言っているようです。また45節を見ると、「祭司長たちやファリサイ派の人々」ということにもなると思います。つまり、当時のユダヤの指導者たちのことのようです。彼らは、イエスさまのたとえ話を聞いて、主人の僕たち、主人の息子を殺した農夫たちの話を聞いて、怒りに震えながら、イエスさまに答えたのでしょう。
 さて、イエスさまは、彼らの答えを聞いて、何と言われたでしょうか。「あなたがたの答えたとおりです」と言われたのでしょうか。いいえ、そうではありませんでした。42節からお読みします。
21:42 イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』21:43 だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。21:44 この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」
 イエスさまは、彼らに「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか」と言われ、聖書の言葉を引用し、語られました。その聖書の言葉とは、こういう言葉でした。「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える」。詩編118編22、23節の言葉です。これを聞いた彼ら、つまり、ユダヤの宗教指導者たちはどうしたでしょうか。45節以下をお読みします。
21:45 祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、21:46 イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。
 祭司長たち、ファリサイ派の人々、彼らは、イエスさまが語られたたとえ話というのが、自分たちのことを言っていることに気づいたというのです。先ほどのイエスさまのたとえ話を振り返ってみますと、ぶどう園の主人、その主人に雇われた農夫たち、そして、主人の僕たち、主人の息子、それが、このたとえ話の出演者でした。ではこの人たちというのは、誰のことかというと、ぶどう園の主人というのは、神さま。すると、ぶどう園というのは、神さまがお造りになった世界、世の中ということでしょうか。そして、農夫たちというのが、祭司長たち、ファリサイ派の人々で、主人の僕たちというのが、神さまから遣わされた預言者、神さまのために仕えた人たち。そして、ぶどう園の主人の息子、それは神さまのみ子イエスさまのことです。
 祭司長たち、ファリサイ派の人々は、たとえ話の中に出てくる農夫たちというのは、とんでもない人たちだ!裁かれなければならない人たちだ!と腹を立てて聞いていたかもしれません。ところが、詩編の言葉を聞いて、たとえ話に出てきたあの農夫たちというのは、自分たちのことを言っていると気づいたというのです。
 もう一度、詩編の言葉を読んでみますと、「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える」とありました。「家を建てる者」、それは、祭司長たち、ファリサイ派の人々のことで、家を建てる者が捨てた石、隅の親石というのがイエスさまのこと。この話を通して、イエスさまは、あなたがたはぶどう園の主人の息子を殺した農夫たち、隅の親石である神さまのみ子イエスさまを捨てた家を建てる者、それと同じことを行ってきたのだと言われたのです。
祭司長たち、ファリサイ派の人々、彼らは、自分たちこそは、神の国に入るのにふさわしい者と自負していた人たちでした。しかし、そういう彼らに向かって、イエスさまは「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」と言われたのです。彼らはそれを聞いて、怒り、主を捕らえようとしました。まさにこのたとえ話にあった主人の僕たち、主人の息子に農夫たちがしたことをしようとしたのです。しかし、この時は、群衆を恐れて、そうしませんでした。群衆はイエスさまが預言者であると思っていたからだということです。彼らは神さまを畏れることはありませんでしたが、人を恐れる人たちでした。

(むすび)
 私たちは、このような聖書の言葉を読むと、祭司長たち、ファリサイ派の人々というのは、何と悪い人たちなのだろう。イエスさまはこの人たちのためにとても苦労されたのだろうと考えるかもしれません。しかし、最初にお話ししましたように、イエスさまは「もう一つのたとえを聞きなさい」、「聞きなさい」と私たち一人一人に向かって語られているのです。ですから、私たちは、聖書の言葉を他人事のように、第三者のようにして聞くことはできないのです。
 祭司長たち、ファリサイ派の人々は、イエスさまから自分たちが問われているのに、他人事のようにしてイエスさまのたとえ話を聞いていました。自分たちがたとえ話に出てきた農夫たちのようなことをしてきたのに、そのことには何も気づいていませんでした。私たちも、農夫たちのような者です。なぜなら、私たちは、ぶどう園、つまり、この世界をお造りになり、支配しておられる方である神さまを、その方のみ子イエスさまを無視して、いないかのようにして、自分が主人であるかのようにして生きてきた者だからです。いいえ、私たちはイエスさまを信じた今もなお、そのように生きてしまうことがあるのではないでしょうか。
ですから、祭司長たち、ファリサイ派の人々だけでなく、私たちも神さまの前に立つ時、一人の罪人であることを認めなければなりません。聖書が、罪人という場合、人と比べて、正しいとか、悪いということを言っているのではありません。また犯罪を行ったことがないから罪がないという話でもありません。神さまを前にして、神さまに対して、私たちはどうなのかということが言われているのです。しかし、そういう私たちを神さまは裁くことをなさらず、そのみ子であるイエスさまをお遣わしになりました。そして、この方は、私たちが受けるべき罪の裁きをご自分が私たちに代わって受けられたのです。それがイエスさまが十字架にかかってくださったことの意味なのです。
 ただいま、教会暦、教会の暦でいうと、レントという期間を過ごしています(今年は2月18日から)。レントというのは、日本語では、受難節、あるいは四旬節と言い、イースター前の日曜日を除く40日間のことです。レントは、イエス・キリストが私たちを罪から救いへと導くために受けられた十字架の苦しみをおぼえて過ごす時です。主の十字架を思い、その愛と赦しを感謝して過ごしてまいりましょう。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
レント、受難節の時を過ごしています。イエスさまは、たとえ話を通して、私たち人間の罪について示されました。ぶどう園の主人、主人の僕たち、そして、主人の息子をいないもののようにして、自分がぶどう園の主人になってしまう、神のようになってしまう。それが罪です。祭司長たち、ファリサイ派だけではなく、私たちも自分を主とするという罪に何度も陥ってしまう者です。自分を正しい者とし、他者を罪に定めてしまう者です。
そういう私たちのために、神さまのみ子イエス・キリストが、私たちを罪から救うために十字架におかかりくださいました。捨てられた石が隅の親石になった、とありました。十字架におかかりになり、死なれた方が復活され、私たちの命の源になってくださったことが示されました。私たちも古い自分、罪に支配された自分が死に、新しい命、イエスさまと共に生きる者として導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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