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【礼拝説教】2022年2月20日「愚か者として生きる」

2022年2月20日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「愚か者として生きる」コリントの信徒への手紙一4章6~13節

聖書―コリントの信徒への手紙一4章6~13節
(はじめに)
 お読みしました聖書の箇所について、私たちの教会で使用している新共同訳聖書では、「使徒の使命」という小見出しが付いています。ところで、この小見出しは何に基づいているのかというと、JBS、日本聖書協会という聖書を出版し、販売する団体があります。新共同訳聖書はこのJBSから出版されましたが、その世界的組織がUBS、聖書協会世界連盟です。そのUBSから出版されたのがギリシア語の新約聖書、つまり、新約聖書の原典です。UBS版のギリシア語聖書には、聖書の理解を助けるために、小見出しが付いていますが、新共同訳聖書の小見出しはそれを参考にしたようです。
 話は戻りまして、今日の箇所の小見出しに「使徒の使命」とありましたが、使徒とは、派遣された者、大切な使命を与えられて派遣された者という意味です。パウロは、自分はキリストの使徒であると自覚していました。ですから、このコリントの信徒への手紙一の冒頭には、「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロ」(1章1節)と書いています。そして、コリントの教会の人たちのことも、キリストの使徒であり、キリストから大切な使命を与えられて派遣された人たちだと考えていたのです。では大切な使命とは何かというと、神さまの救いのご計画に従い、神さまの救いを人々に伝えるということです。パウロ、コリントの教会の人たち、そして、私たちもこの使命のために召され、世に派遣された者なのです。

(聖書から)
 6節をお読みします。
4:6 兄弟たち、あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました。それは、あなたがたがわたしたちの例から、「書かれているもの以上に出ない」ことを学ぶためであり、だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです。
 この箇所は読んでみてお分かりのように、大変厳しい言葉が書かれています。パウロはなぜ、コリントの教会の人たちに対して、こんなに厳しいことを語っているのだろうか?というと、今お読みしましたように、「あなたがたのためを思い」、これが理由です。パウロはコリントの教会の人たちのためを思って、この手紙を書いたのです。あなたがたがキリストの使徒として、その使命を果たすことができるように、そのことを思って書いたのです。
 このようなことも、パウロは語っています。「あなたがたがわたしたちの例から、「書かれているもの以上に出ない」ことを学ぶため」。この「書かれているもの以上に出ない」。「書かれているもの」とは聖書のことです。今なら、私たちが手に持っている聖書、旧約、新約の聖書のことだと言えますが、当時は、聖書といっても、新約聖書はありませんでしたから、旧約聖書のことです。また当時、イエスさまの語られた言葉がまとめられたものもあったでしょう。そういったものを合わせて、「書かれているもの」、それ以上に出ないようにと私は語ってきた、というのです。
 私たち教会は神さまの言葉に生きる群れです。そして、私たちもパウロが言っているように、書かれているもの以上に出ないように、気をつけなければなりません。神さまが言われていないことを、神さまが言われたように、信じてはならない、教えてはならないのです。私は毎週、礼拝で聖書の言葉、神さまの言葉を取り次ぐ働きをしていますが、一番、神経を使うこと、気にかけていることはこのことです。書かれているもの以上に出ないように。そのためには、聖書の言葉をできる限り、正しく理解するように努めなければなりません。
 さて、ここでパウロは書かれているもの以上に出てしまったことがコリントの教会内で起きていることを指摘しています。それはどういうことであったかというと、7節にそのことが書かれています。
4:7 あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。
 ここに「あなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか」と語られていますが、このいただくとか、いただかなかった、というのは、何のことかというと、神さまと私たちの関係のことが言われているのです。私たちは神さまからいただいた者です。何をいただいたでしょうか?命をいただきました。生きるために必要なもの一つ一つをいただきました。つまり、私たちは神さまからすべてのものをいただいた者なのです。
 ところが、パウロはコリントの教会の人たちにこのように言います。「あなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか」。私たちはすべてのものを神さまからいただいたのに、そのことを忘れて、自分の力であれを得た、これを得た、と言い張る人たちがいたのです。そして、そのように言うことで自分を誇ったのです。
 この後、8節に「大金持ち」とか、「王様」ということが言われていますが、これはすべてのものは神さまからいただいたものなのに、そのことを忘れて、自分があれをしたから、これをしたからと誇り高ぶっている様子が表わされているのです。それに対して、パウロは、神さまの恵みによって生かされている自分であることを思い起こすように、と教えている。それが今日の聖書の箇所の前半、6~8節までの内容です。
 これに続いて、9節以下では、キリストの使徒としての生き方、何を目指して生きるのか、ということが教えられています。10節にこのようなことが語られています。「わたしたちはキリストのために愚か者となっている」。キリストのために愚か者となっている。今日の説教題は「愚か者として生きる」としましたが、それはこの言葉から取りました。ところで、この「愚か」という言葉は、これまでこのコリントの信徒への手紙一を読んできて、何度か出てきた言葉でした。この手紙のキーワードとも言える言葉です。その聖書の言葉を振り返ってみましょう。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなもの」(1章18節)、「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになった」(同21節)、「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」(同23節)、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(同25節)。
「十字架」ということが繰り返し出てきました。「十字架」とは、何かというと、イエス・キリストが私たちを罪から救うために十字架にかかって死んでくださった、救いのみわざのことです。しかし、なぜ、他人のために、自分の命を捨てなければならないのか?それは世の中の考え、価値観からすると、愚かなことだというのです。一方、コリントの信徒への手紙一2章12~14節にはこのようなことも書かれています。
2:12 わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。2:13 そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。2:14 自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。
「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できない」とありました。「自然の人」というのは、「生まれながらの人」(口語訳)とも訳される言葉です。これは神さまを知らない人のことです。その人にとっては、神さまの霊の事柄は愚かなことのようにしか思えず、理解できないというのです。私たちもイエスさまを信じる前は、イエスさまの十字架の救いを愚かなことのようにしか思えず、理解できなかった、信じられませんでした。しかし、ここに書かれていますように、神さまの霊によって神さまの霊の事柄を知るのです。私たちも信仰生活を歩んでいくうちに、分かってくるのです。そして、神さまの霊によって、霊の目が、心が開かれた人は、イエスさまの十字架の意味が分かるようになり、私はイエスさまから命をいただいた!イエスさまによって生かされている!救いの喜びが与えられ、その感謝から、キリストの愚かさに生きようとする。つまり、キリストに従う者になっていくのです。

(むすび)
 パウロは、私たちはすべてのことを神さまからいただいた者である、ということをコリントの教会の人たちに語りました。コリントの信徒への手紙一3章10節には、このようなことが書かれていました。「神からいただいた恵みによって」。私たちの教会は、今年で伝道開始63年です。この「神からいただいた恵みによって」という言葉で思い出すのが、伝道開始50年、2009年に記念誌を出版した時のことです。その時の記念誌のテーマが「ただ主の恵みによって」でした。私たちの教会の歩みも、このテーマの通りです。「神からいただいた恵みによって」、このみ言葉の通りです。そして、私たちはこれからも、神さまの恵みによって歩んでいくのです。お祈りいたします。

祈り
恵み深い主なる神さま
 パウロはコリントの教会を愛していました。それゆえに罪に陥っている彼らに厳しく語りかけました。神さまの恵みをいただいて生きている、生かされているのに、そのことをすっかり忘れ、すべては自分たちで得たもののように考え、自分たちのわざを誇り、高ぶり、神さまへの感謝、喜びを見失っている様子を悲しみ、心配し、神さまの恵みに立ち帰るように語りました。
 私たちも神さまの恵みを見失うことがありませんように。そして、この恵み、キリストの十字架の救いを見つめ続け、罪から救われたことを感謝し、喜び、生きる者となりますように導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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