十字架の上の主の祈りに支えられて(ルカ23章26~43節) 【週報巻頭言】2026年4月15日
十字架の上のイエスさまの祈りはこのようなものでした。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34節)。この祈りは誰のための祈りでしょうか?イエスさまを十字架にかけた人たち。イエスさまをローマの十字架刑に至らせるために仕組んだ人たち。ユダヤの指導者の人たちであるとか、総督ピラト、そして、実際にイエスさまを十字架にかける作業を行ったローマの兵士たち・・・。そのように答えることもできますが、この聖書の言葉を読むたびに、「この私のためにイエスさまは祈ってくださったのだ」。そのように受け止められる方がいるのではないでしょうか。「彼らをお赦しください」。この「彼ら」というのは、二千年前の誰かのことに留まらず、今、この言葉を聴く私。私たちは、そのようにこの祈りの言葉を受け止めていけたらさいわいだと思います。
イエスさまは、「自分が何をしているのか知らないのです」と祈られました。自分が何をしているのか知らない。これは、罪のことを言っているのだと思います。自分の罪が分からない。皆さんの中で、自分の罪が分かると言える方がいるでしょうか?私には、こういう罪があり、ああいう罪がある、と明快に答えることができるでしょうか?いいえ実は、私たちは、自分の罪さえも分からない者だと思うのです。自分でも気づいていない罪がある。いや気づいていない、そのことすらも分からないでいる・・・。聖書が私たちに教える罪、それは神さまに対しての罪ということです。言い換えると、神さまから見た罪ということです。
自分が何をしているのか知らない。自分の罪が分からない。そういう私たちのために、主は祈られたのです。「父よ、彼らをお赦しください」。私たちは、主を求め始めた時には、主を信じて間もない時には、「父よ、彼らをお赦しください」ということも、十字架のことも、まだぼんやりとしか分からなかったかもしれません。しかし、主に従う歩みをしていく中で、聖書の言葉に生きていこうとしていく中で、いかに自分には愛がないのか、神さまの心から離れているのか。そういうこと一つ一つに気づかされていって、自分が一人の罪人という意味が本当に分かってきて、後になって、主が十字架の上で祈られた祈りが、イエスさまの十字架が、本当に私のためだったのだ、と知らされ、気づかされていく。私たちは、その途上にあるのではないでしょうか。
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