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【週報巻頭言】2023年7月16日 日々、新しい命に向かって(一コリント15章29~34節)

兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。(一コリント15章31節)

パウロは、このように言いました。「わたしは日々死んでいます」。私は日々死んでいる。パウロも、パウロが手書きを書き送ったコリントの教会も、毎日が死ぬような思いだったのだと思います。いつ迫害によって、命の危機にさらされるかもしれない、そういう恐れを持ちながら、一日一日を生きていたのだと思います。一期一会、これが地上の生涯の最期の礼拝かもしれない。そういう思いで礼拝に出席した人たち、信仰生活を歩んだ人たちがいたことでしょう。

「わたしは日々死んでいます」。パウロは、自分がいつ死ぬか分からない。そういう思いをもって、日々を歩んでいた、生きていたと思いますが、もう一つの意味で、この言葉を語ったのではないかと思うのです。

わたしたちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。(ローマ6章4節)

日々死ぬということ、それは、日々、罪に支配された古い自分に死ぬということです。しかし、それは決して、悲観的なことではありません。古い自分に死ぬことによって、私たちは新しい命に生きる。キリストと共にある新しい自分として生きることになるからです。

だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。(二コリント4章16~18節)

世にある苦しみについて、「わたしたちの一時の軽い艱難」と言い表しているのが印象的です。私たちの苦しみというものは、決して軽いものとは言えないものでしょう。しかし、「比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」とありましたように、大きな希望が私たちを待ち受けているということが言われているのです。

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