「生きている者の神」マタイによる福音書22章23~33節 2026年4月12日
(はじめに)
先週はイースター、私たちの救い主イエス・キリストの復活をお祝いする礼拝を行いました。罪と死に勝利された復活の主は、今、私たちと共におられます。ところで、今日お読みしました聖書の言葉にも、復活のことが書かれていました。新共同訳聖書の小見出しには、今日の聖書個所について、「復活についての問答」と付けられています。復活についての問答。復活があるかないか、という議論。私たちはもう知っているはずです。復活についてどんなに議論をしても、結論が出ないことを。なぜなら、復活は人間には納得できないことだからです。人間の常識ではありえないことだからです。復活、これは、信じるかどうか、という問題です。
(聖書から)
サドカイ派の人たちは、イエスさまに尋ねます。
22:23 その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。
イエスさまに復活について尋ねたサドカイ派の人たち。彼らについて、「復活はないと言っているサドカイ派の人々」とあります。サドカイ派の人たちは、復活はないと言っていました。そういう人たちが復活について尋ねたというのは、もう彼らの答えは出ているのです。私たちは復活など信じてはいない。だから、あなたもそれに同意してほしい。そういうつもりでイエスさまに復活について尋ねているのです。
22:24 「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。22:25 さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。22:26 次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。22:27 最後にその女も死にました。22:28 すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」
「モーセは言っています」とありますが、これはモーセの直接の言葉ではありません。旧約聖書に出てくる律法、これをモーセの律法と言いました。申命記25章5節以下に書かれていることをサドカイ派の人たちは、質問しています。新共同訳聖書では、この箇所について、「家名の存続」という小見出しを付けています。そこに書かれている内容は、レビラト婚と言われるもので、後継ぎがないまま、夫が死んだ場合、妻は夫の弟と結婚するというものでした。サドカイ派の人たちは、夫に七人の兄弟があって、次々に後継ぎがなく、亡くなった場合はどうなるのか。その妻は夫の弟、そして、その下の弟という具合に、次々と結婚することになるとしたら、死んだあとはどうなるのか。復活の時には、その人は誰の妻になるのか、という質問です。
繰り返しますが、サドカイ派の人たちは、復活を信じていませんでした。人間は生きている間だけで、死んだらすべては終わり、と考えていました。一方、同じユダヤ人の中でも、ファリサイ派の人たちは、復活を信じていました。サドカイ派の人たちは、復活を信じる人たちのことを何と愚かなことを信じているのか、と考えていました。イエスさまに質問することで、復活など信じるに値しないことだと言いたかったのではないでしょうか。イエスさまは、サドカイ派の人たちの質問に対して、どのように答えたのでしょうか。
22:29 イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。22:30 復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
イエスさまは、彼らに言われました。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」。「聖書も神の力も知らない」。サドカイ派の人たちが、聖書を読んでいなかったとか、神さまを信じていなかったということではありません。彼らは、聖書に詳しく、神さまを信じる人たちでした。けれども、イエスさまは、彼らのことを「聖書も神の力も知らない」と言われたのです。
ところで、私たちがイエスさまからこのようなことを言われたら、どう答えるでしょうか。「いいえ、イエスさま、私は聖書を読んで、よく学んでいますし、もちろん、神さまを信じています」。そう答えるでしょうか。私は、このイエスさまの言葉を読んで、こう思いました。私は本当に聖書を知っているのだろうか。私は本当に神さまを知っているのだろうか。いいえ、まだまだ知らないことだらけではないだろうか。
先日の執事会で、教会のホームページに掲載されている牧師の説教をカテゴリー別に分けてみたらどうだろうか?という話がありました。今の時代はとても便利で、AIというものを使うと、カテゴリーで簡単に分けることができるのだそうです。AIがその説教で使われている言葉から判断して分けるというのです。本当に便利な時代です。なぜ、このような話をしたのかと言いますと、今お話ししましたように、私たちは聖書のことも、神さまのことも本当に知っているのだろうか、分かっているのだろうか。そのことを考えながら、思い出した言葉があるのです。それは、西南学院の院長をされていたギャロットという先生の言葉です。「分かっただけのイエスさま」という言葉です。その言葉をインターネットで検索すると、私は説教の中で、今まで、この言葉を、二回ほど取り上げていたことが分かりました。その時には、自分が分かっただけのイエスさまでいいから、そのイエスさまを伝えていきましょう、という話をしました。しかし、今日はそれとは違う話をしたいと思うのです。それは、私たちは、自分が分かっただけのイエスさまに留まらないでいましょう、ということです。
もちろん、私たちは、今、自分が分かっただけのイエスさまを伝えるほかないのですが、そこで留まらないで、もっともっとイエスさまのことを知っていきたいと思うのです。パウロは、エフェソの教会に書き送った手紙の中で、エフェソの教会の人たちのために祈ったことが書かれています。その祈りの言葉を読んでみます(エフェソ3章14~21節)。
3:14 こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。3:15 御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。3:16 どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、3:17 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。3:18 また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、3:19 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。
3:20 わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、3:21 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
私は、このパウロの祈りが本当に心に響くのです。パウロはエフェソの教会、また自分が関わった教会のために、このような祈りをささげていたと思います。私たちもパウロが祈ったこの祈りをお互いのためにささげていきたいと思うのです。私たちの「分かっただけのイエスさま」から、さらに広がって、もっともっとイエスさまの愛の広さ、長さ、高さ、深さを知ることができるように祈っていきたいと思うのです。
今日の聖書に戻ります。イエスさまは、サドカイ派の人たちに「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」と言われました。これはあなたたちには、まだまだ知らないことがあるのだ、と言われているように思うのです。サドカイ派の人たちは、復活を否定するためにイエスさまに質問しましたから、イエスさまから、「あなたたちは聖書も神の力も知らない・・・」と言われたことで、腹を立てていたかもしれません。しかし、私たちは、この言葉を素直に受け止めて、イエスさま、本当にそうです。もっともっと聖書のことを、神さまのことを教えてください、と祈っていきたいと思うのです。
30節には、「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」とありました。天使のようになる。いったい、これはどういうことだろうか、と天使についてよく調べなければ、分からないことなのだろうか、と思うかもしれませんが、ここで言われていることは、私たちが、この地上の人生において考えていること、理解していることなどから、想像してみたり、類推してみたりして、死後の世界はこんなものだろう、天の国はこんなものだろうと考えることではないと思うのです。死後の世界とか、復活とか、天の国のことは、私たちには、はっきりとは知らされていないことです。それは、自分で勝手な想像をするのではなく、神さまを信頼して委ねていく以外にはないと思うのです。
世界のあちらこちらで戦争の声を聞く毎日です。教会においでになる方の中には、今は終末、終わりの時でしょうか、とお尋ねになる方があります。インターネットで調べてみると、終末について、事細かに聖書の言葉に当てはめて説明する人たちがいるという話も聞きます。世界が危機に瀕していると思えるこの時代には、とても興味深いことですが、それはまたとても危険な聖書の理解であり、読み方であると思います。聖書が教えているとは思えないことを、無理な解釈を施して、ああだ、こうだ、と言っている。私たちは、聖書が教えていないこと、語っていないことに逸脱してはならないと思います。この地上の生のことも、天に召された後のことも私たちを愛しておられる神さまを信頼して、主を見上げて一日一日を生きることが大切なことではないでしょうか。
(むすび)
22:31 死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。22:32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」22:33 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。
この言葉をイエスさまが言われた時には、アブラハムも、イサクも、ヤコブもすでに亡くなっていました。しかし、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と言われた後、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」と言われたのです。つまり、アブラハムも、イサクも、ヤコブも生きていると言っているのです。このことを聞いた群衆については「イエスの教えに驚いた」と書いています。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、もう死んだ人なのに、この人は不思議なことを言っている、と驚いたのでしょうか。ある牧師先生は、イエスさまは、アブラハム、イサク、ヤコブの神とは言われず、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と言われたことに注目して、神さまは、私たち一人一人に出会ってくださる方であると語っています。本当にそうだと思います。私たち一人一人の地上の生涯はやがて終わりの時を迎えます。しかし、その後も神さまとの関係は続くのです、永遠に続くのです。復活とは、神さまとの関係は死んでも変わらない、終わらない、永遠に続くということです。私たちはこのことを希望として、この地上で生きている今この時を大切に、命を与えてくださっている主を見上げ、主を喜び、歩んでいきたいと思います。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
先週は、主の復活をお祝いするイースター礼拝を行いました。今日は、復活についての問答が書かれている聖書の言葉から聴きました。この聖書に書かれていたことは、私たちの復活のことです。「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです」(一コリント15章20、21節)。主が復活されたことにより、私たちも復活することが聖書に約束されていますから感謝します。復活の希望を抱きながら、主を見上げ、主を喜び、生きる者とさせてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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