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善い業のために生きる エフェソの信徒への手紙2章1~10節 2023/10/22/SUN.

「善い業のために生きる」エフェソの信徒への手紙2章1~10節 2023/10/22/SUN. 赤塚教会礼拝説教(朝・夕)

聖書―エフェソの信徒への手紙2章1~10節
(はじめに)
2:1 さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。
本日お読みしましたエフェソの信徒への手紙2章1節からの言葉、その最初の言葉です。ここに「自分の過ちと罪」とあります。過ちと罪、これは同じことのように思えますが、新約聖書の原文では、それぞれ別の言葉が使われています。私たちの教会で使用している新共同訳聖書では、「過ちと罪」と訳されていますが、私たちの教会で以前使用していました口語訳聖書では、「罪過と罪」と訳されていました。この過ちと罪、罪過と罪、何が違うのでしょう。
ある方は、過ちと罪、この違いについて、ここで「過ち」というのは、外に表れるもの、一方、ここで「罪」というのは、内側にあるものと説明しています。つまり、罪というのは、外に表れる罪というのと、内側にある罪がある。もしかすると、これをお聞きになって、このようにお考えになる方があるかもしれません。罪というのは、外に表れなければよい。すなわち、罪を実行しなければよい。内側だけで、心の中だけで思っているなら、それは問題ないのではないか?
イエスさまは、罪について、どのようにお考えだったのでしょうか。マタイによる福音書5章27節以下に、「姦淫してはならない」という小見出しが付けられている箇所があります。特にその箇所をお読みしませんが、そこで言われているのは、目で罪を犯すことがある、ということです。実行はしなくても、目で見て、心の中で犯す罪がある、ということが言われているのです。
過ちと罪。それは、外に表れた罪、罪を実行するということだけでなく、内側にある、内側に隠された罪、そのことも言われているのです。このようなことを考えると、誰一人、罪のない者はいない、ということが分かるのではないでしょうか。
ある牧師先生のお話です。牧師たちが集まって何日か宿泊しての修養会を行ったそうです。朝、食事の前にそれぞれ牧師たちが祈りました。すると、その修養会の講師として招かれていた先生が、参加していた牧師たちにこう言ったそうです。「君たちは、自分の罪の赦しについて祈らないのですか?私はいつも自分の罪の赦しについて祈ります」。それを聞いていた牧師たちはハッとしたそうです。願いや感謝の祈りはいつもしてきたけれども、自分の罪については意識していなかったのではないか?先ほども言いましたが、私たちは外に表れた罪だけではなく、内側に隠された罪、それはもしかすると、自分では気づいていないかもしれない。自分で自覚している罪だけでない。自覚していない罪。そのことを思う時、私たちは、自分の罪の赦しを祈る必要があるのではないでしょうか。イエスさまは、主の祈りの中で、このように祈ることを教えてくださいました。「わたしたちの負い目(罪)を赦してください」(マタイ6章12節)。
自分の罪を知ること、自覚することは大切なことです。なぜなら、罪を知る人が本当に赦しを知るからです。イエスさまがこの私のために十字架にかかってくださった。この私を罪から救ってくださった。赦しの恵みを知るのです。

(聖書から)
 もう一度、1節をご覧ください。「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」。先ほどは、過ちと罪ということについてお話ししましたが、このようにも書かれています。「自分の過ちと罪のために死んでいた」。「死んでいた」とあります。過ちと罪によって、私たちは死んでいた。死んでいる状態だった。そのように書かれています。
 「いいえ、そんなことはありません。私は、神も、罪も、赦しも、何も知らないけれど、元気に生きていますよ」。そのように思われる方があるかもしれません。しかし、これが、聖書の視点なのです。聖書の人間理解なのです。人間は罪によって死んでしまう。人間は神さまから離れているなら、死んでいる状態。そのように語っているのです。
2:2 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。2:3 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。
 ここにも、罪の中にある人間の姿が語られています。3節に「肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していた」とあります。これは、神さまを無視し、自分を中心に生きていた、ということです。すなわち、罪というのは、何か特別に悪いことをするということだけではなく、神さまから離れて、自分の思いのままに生きるということです。そして、それが、罪によって死んでいる、ということです。
 ここまで読むと、暗い気持ちになってしまうかもしれませんが、この後に次の言葉が続きます。
2:4 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、2:5 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです―― 2:6 キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。
 「しかし」という言葉から始まるお読みしましたこの言葉は私たちに喜びと希望を与えます。神さまの前に罪人である私たちです。しかし、神さまはどのような方かというと、「憐れみ豊かな神」なのです。罪深い私たちですが、「わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし」と語られます。「この上なく愛してくださり」というのは、本当にうれしい、ありがたいことです。別の訳(口語訳、聖書協会共同訳、新改訳)では、「この上なく愛してくださり」というところを「大きな愛」と訳しています。神さまは私たちのことを、私たちの思いを超えた大きな愛で、この上なく愛してくださり、私たちを罪から救い出してくださったのです。
 5、6節には、罪のために死んでいた私たちを、キリストと共に生かし、キリストと共に復活させ、キリストと共に天の王座に着かせてくださった、とあります。この言葉の間に、こういう言葉が挟まっていることにも注意してみましょう。「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」。私たちは神さまの恵みによって救われたのです。私たちは人間のわざによって救われたのではないのです。一生懸命、伝道するから、献金するから、奉仕するから、救われたのではないのです。ただ神さまの愛によって、恵みによって救われたのです。伝道、献金、奉仕、それらのことは、救われた感謝の心から、なされていくのです。
2:7 こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。
 私たちは、福音を伝える、証しする、ということに躊躇することがあります。自分がどれだけ聖書のことを知っているか、分かっているか、自分の生き方、生活は証しになっているか、そのことを考えると躊躇してしまいます。しかし、福音を伝える、証しするというのは、私たちに示された限りなく豊かな恵みを世に表すことなのです。自分ではなく、神さまの恵みを表わすことなのです。
2:8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。2:9 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。
 私たちの行いによって、ではなく、神さまの恵みによって、私たちは救われました。先ほどもお話ししましたが、私たちの行いというのは、救われるためではなく、救われた感謝から行いが出てくるのです。神さまへの感謝の表れですから、それを人に向かって誇ることはできないのです。

(むすび)
2:10 なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。
 「わたしたちは神に造られたもの」とありました。「わたしたちは神の作品」(口語訳、聖書協会共同訳、新改訳)とも訳されます。ある牧師先生は、「神の傑作」と言っています。傑作というのは、「とびぬけてすぐれたできばえの作品」(『角川必携国語辞典』)ということです。私たちは自分のことをどのような者と見ているでしょうか。残念なことですが、周りから、ダメな人だとか、使えない人だとか、言われてしまうと、そういう言葉に支配されてしまって、自分はダメなのだ、自分は役に立たないのだ、と思うようになってしまいます。しかし、私たちは人の言葉に支配されないように、人の言葉ではなく、神さまの言葉に支配されるようにしたいと思います。人はいろいろなことを好き勝手に言います。しかし、神さまは何と言っているか。そのことに耳を傾けていくのです。私たちは神さまに造られた者であり、神さまの目には、私たちは神さまの傑作なのです。
 そういう私たちは、「神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られた」のです。「善い業」とありました。それも「神が前もって準備してくださった善い業」とありました。何が善いわざなのか、というと、神さまの言葉から聞いていくのです。そして、神さまの善いわざのために励むのです。
 最後に、10節の「キリスト・イエスにおいて造られた」という言葉に触れて終わりたいと思います。「キリスト・イエスにおいて」。この言葉は文語訳聖書では、「キリスト・イエスの中(うち)に」と訳されています。私たちは、キリスト・イエスの中に、キリスト・イエスのうちに生きる。それが、罪から救われた者の生き方です。お祈りします。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
  私たちは自分がかつて罪によって死んでいたこと、そのことに気づかないでも、人生を謳歌しているように思っていました。しかし、聖書は罪に支配されて生きるとは、死んでいることだと語ります。
 神さまの大きな愛によって、私たちは罪から救われ、神さまにあって生きる者とされたことを感謝します。自分ではそう思えないかもしれませんが、私たちは神さまの傑作、善い者として造られたことをおぼえて、私たちをお造りになり、愛してくださり、共におられる神さまの恵みを見上げながら歩ませてください。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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