「最も重要な掟」マタイによる福音書22章34~40節 2026年5月10日
(はじめに)
お読みした聖書の個所は、小見出しでは「最も重要な掟」と付けられています。説教題も同じく、「最も重要な掟」としました。掟というと、私たちの日常の生活では、ほとんど聞くことのない言葉です。手元にある国語辞典で「掟」という言葉について引いてみますと、このように書かれていました。「きまり。必ず守らなくてはならないしきたり」(『角川必携国語辞典』)。別の聖書の訳では、掟という言葉が、「戒め」となっていました。掟、戒めと聞いてもピンとこないかもしれませんが、辞書にありましたように、「きまり」というと、何となく分かったように思うかもしれません。私たちもお互いがよりよく生きていくために、国、地域、団体、学校などでそれぞれ「きまり」があります。神さまは、私たちがお互いによりよく生きていくことができるように、「きまり」を与えてくださったのです。それが、この聖書の中に書かれているのです。
(聖書から)
34節の言葉をお読みします。
22:34 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
ファリサイ派の人々とサドカイ派の人々が一緒に集まった、とあります。なぜ、一緒に集まったのかというと、イエスさまが、サドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まったというのです。イエスさまがサドカイ派の人々を言い込められた。そのことについては、お読みした聖書個所のすぐ前に書かれています。サドカイ派は、復活を信じていませんでした。復活など、信じるに値しない。そのことをイエスさまに示すために、ある質問をしたのです。ところが、イエスさまは、サドカイ派の人々の質問に答えられ、サドカイ派の人々はその答えを聞いて、黙ってしまったのです(34節の新改訳の訳)。
私たちが、何か人に質問をした場合、その人が適切な、的確な答えをしたなら、やはり、黙ってしまうと思います。もうそれ以上、質問する必要はなくなる、反論する必要はなくなるから、黙ってしまうのです。サドカイ派の人々は、イエスさまの答えに納得していたのかは分かりませんが、もうそれ以上の質問はしなかった、反論はしなかったのです。ところが、それを聞いていたファリサイ派の人々がサドカイ派の人々のところに集まったのです。
サドカイ派は復活を信じていませんでした。しかし、ファリサイ派は復活を信じていたのです。両者は、信仰理解が異なっていたのですが、イエスさまを批判したい。その点では、一致したのです。こういう結び付き、つながりというのはどんなものでしょうか?何か良いことで一致できたら、一つになれたらよいのですが、誰かを批判するとか、悪口を言うとか、そういうことで一致したりとか、仲良くなるというのはいかがなものでしょうか。
さて、サドカイ派の人々とファリサイ派の人々は、イエスさまを批判するために、共闘しましたが、ファリサイ派の律法学者がイエスさまにこのような質問をしました。
22:35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。22:36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
先ほど、掟、戒めという話をしましたが、これは律法とも言います。神さまが私たちに与えてくださったきまりです。その中で、どの掟が最も重要でしょうか、という質問です。ここには、「イエスを試そうとして尋ねた」とあります。サドカイ派の人々が言い込められたから、今度は、ファリサイ派の人々がその敵を取ってやろう、とでも思ったのでしょうか。イエスさまを試そうとして尋ねた、というのです。
「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」。聖書の中で最も重要な教えはどれですか?という質問です。この分厚い聖書の中で、どれが最も重要か?という質問は、なかなか答えるのに大変だと思います。イエスという人は、この質問に答えられるだろうか?してやったり、という思いで、イエスさまに問いかけたのだろうと思います。
イエスさまはこの質問に次のようにお答えになりました。
22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 22:38 これが最も重要な第一の掟である。 22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
イエスさまは、最も重要な掟という問いに対して、二つの掟を持ってお答えになりました。まず、第一の掟として、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」ということでした。これは聖書のどこに書いてあるのだろうか?と自分で聖書を開いて調べてみたいと思われる方は、申命記6章5節をお開きください。その箇所を読んでみますが、その前後の言葉も大切だと思うので、申命記6章4~9節をお読みします。
6:4 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。 6:5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 6:6 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、 6:7 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。 6:8 更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、 6:9 あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。
イエスさまの時代は、聖書というと、今の旧約聖書でした。その旧約聖書というのは、神の民とされたイスラエルの民が神さまに従うために読まれたものでした。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」。神さまは、イスラエルの民に「聞け、イスラエルよ」と呼びかけられました。聞くということは、信仰においては大事なことです。新約聖書では、パウロがこのようなことを書いています(ローマ10章17節)。10:17 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。
信仰は聞くことから始まります、と言っています。「聞け、イスラエルよ」。これと同じことが、言われています。私たちも、まず、聞くことから始めるのです。何を聞くのでしょう?「キリストの言葉を聞くことによって始まる」とありました。キリストの言葉、神の言葉、これを聞くことから信仰は始まるのです。
教会で皆さんにお勧めすることは、ご自分で聖書を読むということです。聖書を神さまの言葉として読む、神さまから私たちへの語りかけとして読むのです。そのことによって、神さまという方はどういう方であるかを知ります。神さまはどのようなお考えであるかを知ります。そして、その神さまの言葉に従っていくのです。
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」とイエスさまは言われました。神さまを愛するということ。これが、最も重要な第一の掟です、と言われました。申命記の方では、この言葉の後にこういう言葉が続きます。「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。 更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、 あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」。
神さまの言葉を心に留めるように。子供たちに教えなさい、語り聞かせなさい、といったことが言われています。神さまを愛するということ、それは、神さまの言葉を心に留めるとか、教えるとか、言われていますが、言葉ということは、私たち人間のお互いの関係性ということでも大事なことです。愛する。大切にする、という言葉で言い換えてもいいでしょう。本当に相手を愛しているなら、大切にするなら、相手の言葉に耳を傾けます。どんなに話しても、無視したり、知らん顔したりしているなら、それは愛しているということではないでしょう。そのようにして、私たちはお互いを言葉によって知り、深い交わりを持つのです。神さまとの関係も同じです。神さまの言葉を聞く。神さまが私に言われていることは何だろうか、と耳を傾けていく。そして、神さまを深く知っていくのです。
最も重要な第二の掟。それは、「隣人を自分のように愛しなさい」ということでした。これも旧約聖書の言葉から聞いていきたいと思いますが、レビ記19章18節です。17節からお読みします。
19:17 心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。19:18 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。
レビ記19章17、18節の言葉を読みました。18節の後半に「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」とありましたが、17節から18節の前半にある「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない」という言葉も気になります。つまり、この言葉は、人間関係について書かれている文脈の中で語られているのです。私たちが人との関係の中に生きる時、憎しみとか、恨みとか、そういうことが起こってくるのは避けられない事実です。しかし、そういう私たちに神さまは、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と語られたのです。この言葉のすぐ後には、「わたしは主である」と続いています。あなたがたを造り、愛しているのは、この私だ、神だ、と言っているように思えます。私たちは、人との関係で、いろいろなことが起こってくる時、私たちを造られたのは神さまであるということ、私たちを愛しておられる神さまがおられることに目を向けていくのです。
そして、実は、今日お読みした最後の言葉、このイエスさまの言葉こそは、最も大事な言葉のように思います。
22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
律法全体と預言者というのは、聖書全体ということです。聖書は、この二つの掟に基づいているというのです。神さまを愛すること、隣人を愛することです。ファリサイ派の人々、サドカイ派の人々というのは、神さまの掟を守ることに一生懸命努めている人たちでした。それなのに、このイエスという人は、私たちに問いかけてくる。いったい、私たちのどこに欠けがあるというのか?私たちは真面目に神さまに従ってきたのにどういうつもりなのか?彼らがイエスさまを憎んだのはそういう理由からでした。しかし、まさにこの言葉こそは、イエスさまが彼らに言いたかったことでした。「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」。聖書は、神さまを愛すること、隣人を愛すること、この二つに基づいていると言われたのです。
(むすび)
愛の章として、知られている聖書の言葉があります。コリントの信徒への手紙一13章の言葉です。そこにはこのようなことが書かれています。
13:1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 13:2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 13:3 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
ここで言われていることは何かというと、愛のない信仰のことです。愛のない信仰、それは「騒がしいどら、やかましいシンバル」、「無に等しい」、「何の益もない」というのです。神さまを愛することから、隣人を愛することから出ているのではない信仰はこういうものだというのです。私たちが語ること、行なうこと、そのすべては、神さまを愛するところから、隣人を愛するところから始められていくのです。
私は神さまに愛されている。私だけではありません。あの人も、この人も神さまに愛されている。その愛を知る、愛されていることを知る私たちは、その愛に応えていこうとするのです。信仰生活は神さまの愛から始まるのです。神さまの愛を知らない信仰生活というのもあります。それはまるで修行、いいえ、苦行のようなものです。聖書が教える信仰はそうではありません。神さまは愛です。神さまの愛を知ることから始まる信仰です。お祈りいたします。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
聖書は、神さまを愛すること、隣人を愛すること、それが最も重要な掟であると語ります。けれども、私たちは、愛することの難しさを知っています。愛せない、愛さない自分であることを知っています。
しかし、私たちは、神さまから愛されていることを知っています。愛されている私、すべての罪を赦されている私、そのことを知る時、そこから愛する歩みが始まります。
どうか、私たちが罪によって心の目が曇ってしまい、神さまの愛を見失うことがありませんように、私たちを罪から守り、神さまの愛を信じ続けさせてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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