イエスを人生の主とする(ヨハネ6章1〜15節)
「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」(ヨハネ6章14、15節)。
イエス様を自分たちの王にしようとした人たちがいたことが記されています。イエス様を自分たちの王様にする。良いことではないですか!そう思うかもしれませんが、イエス様はそれを避けて山に退かれた、というのです。つまり、このことはイエス様のお考えとは異なることだったのです。イエス様を自分たちの王様にしようとした人たち。それは実のところ、イエス様を自分たちの王様にするのではなく、自分たちにとって都合の良い、自分たちの利益のためになる、そういう存在にしたかったのです。むしろ、イエス様を自分たちの王様でなく、僕にしようとしたのです。
こういう信仰、信心は私たちの身近にもあるのではないでしょうか。お詣りに行って、自分の願いを申し上げに行く。自分の願望、願いを聞いてもらうだけ、自分の言うことを聞く神、自分のための神、信心。もちろん、私たちも神様にお願いしたりしますし、それは何も悪いことでも間違いでもないでしょう。けれども、私たちに神様が教えられた信仰、聖書が教える信仰はお願いするためだけの神様ではありません。私たちが神様に従う信仰です。神様を私たちに従わせる信仰ではないのです。
「自分を王にするために連れて行こうとしている」とありました。口語訳は「自分をとらえて王にしようとしている」となっています。私たちの信仰はこれとは逆です。捕らえられるべきは私たちなのです。私たちが神様に捕らえられて、神様のご用のために用いられていくのです。私たちはみんな、神様のご計画の中にある、神様の御手の中にある。その神様に自分の人生を、自分自身を委ねて、お任せして生きる。そこに本当の喜び、幸い、平安がある。それが聖書が私たちに伝えていることです。イエス様を信じて歩みましょう。
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