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【礼拝説教】2023年5月14日「天の父の御心を行う者」

2023年5月14日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「天の父の御心を行う者」マタイによる福音書7章15~23節

聖書―マタイによる福音書7章15~23節
(はじめに)
 イエスさまが山の上で説教、神さまの言葉を語られた内容が書かれているのが「山上の説教」と言われるものです。マタイによる福音書5章から7章にその説教が書かれています。今日は7章15~23節をお読みしました。
 15節に「偽預言者を警戒しなさい」とありました。聖書には、「預言者」という人が出てきます。預言というのは、言葉を預かると書きます。預かるというのは、どういう意味かというと、辞書には、「たのまれたものをひきうけて守る」(角川必携国語辞典)とありました。預言者というのは、神さまから言葉を任された人という意味です。
 預言者は、神さまの言葉を神さまから聞きます。それもただ聞くだけでなくて、正しく聞き取って、人々に伝えます。伝言ゲームというゲームをご存じでしょうか?教会でも、キャンプの時など、よく伝言ゲームをしたことを思い出します。私は、このゲームを通して、教えられたことは、言葉というのは、正しく、忠実に伝えていくというのがどんなに難しいか、ということでした。
 預言者という人たちは、神さまの言葉を正しく、忠実に聞き取り、伝えることに励んでいきました。ところが、その中には、神さまが本当には言っていないのに、神さまが言っているように伝える人たち、神さまよりも、自分の考えや思いを伝える人たちが出てきました。そういう人たちのことを、偽預言者と言います。
 私も毎週、礼拝で聖書、神さまの言葉を皆さんにお話ししますが、神さまが言われたことを正しく、忠実にお話ししているだろうか?このことをいつも心配しています。ですから、皆さんには、そういう私のためにお祈りしていただけたらさいわいです。

(聖書から)
 もう一度、15節をお読みします。
7:15 「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。
 偽預言者、つまり、神さまから任された言葉を語るのでなく、自分の考えや思いを語る人たちのことを警戒するように、と言われています。その人たちというのは、羊の皮を身にまとっているように見える、とあります。優しく、自分のことをよく分かってくれるように見える人たちなのでしょう。けれども、その心の中は貪欲な狼とあります。言葉や態度は親切かもしれません。でも、その人たちの心の中は、それとは違う、というのです。ではどうやって、警戒したらいいでしょうか?見分けたらいいでしょうか?そのことが16節以下に書かれています。
7:16 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。7:17 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。7:18 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。7:19 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。7:20 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」
 茨からぶどうが採れるはずはありません。あざみからいちじくが採れるはずもありません。ぶどうの木からぶどうが採れます。いちじくの木からいちじくが採れます。良い木は良い実を結ぶ。それは、私たちが良いものである神さまの言葉を聞いて受け入れるなら、私たちの生き方に神さまの心が、神さまが喜ばれることが表れるということです。その人がどんな生き方をしているか?そこで見分けることができるというのです。 イエスさまはこうも言われました。「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」。ちょっとこわい言葉ですが、この言葉から、イエスさまが、それほどに厳しく、真剣に、私たちに向き合って、語っておられることが分かります。
 この後、イエスさまは、このようなことを語られました。
7:21 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。7:22 かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。7:23 そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」
 これもまた厳しい言葉が語られています。「『主よ、主よ』と言う者」、「『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』」、ここに書いてある人たちというのは、とても熱心に、神さまにお祈りした人たちであるとか、預言をした、神さまの言葉を語った人たち、悪霊を追い出し、奇跡を行って、人を助けた人たちのことが言われていると思います。ところが、そういう人たちのことをイエスさまは、「わたしの天の父の御心を行う者」ではない、「不法を働く者ども」と言うのです。
 こんな話を聞いたら、私たちは心配になります。真面目に生きているならば、良い行いに励み、正しく生きているならば、神さまは祝福してくださるだろう、喜んでくださるだろう。そう考えるのが当たり前だと思うのですが、いったいイエスさまはここで何を言われているのでしょうか?
 私は、この聖書の言葉を読みながら、コリントの信徒への手紙一13章の言葉を思いました。そこには、このようなことが書かれています(一コリント13章1~3節)。
13:1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。13:2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。13:3 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
 ここで繰り返し語られているのが、「愛がなければ」ということです。愛がなければ。神さまに対する愛、人に対する愛、それがなければ、その人の行っている立派なこと、良いことというのは、何が目的になるでしょうか?自分のことが目的になるのではないでしょうか?でも、私たち人間は本当に弱い者です。自分を人に誇りたい、評価されたい。そういう思いがまったく無いか?というと、そうは言えないのではないでしょうか。
 この「愛がなければ」ということを、ある人は「イエスさまがいなければ」と読み替えて読んでみたらよい、と言います。「イエスさまがいなければ」。私たちはイエスさまがいなければ、イエスさまの愛と赦しがなければ、何もできない。そういう者なのです。
 先ほど、ぶどうの話が出ていましたが、イエスさまは、ぶどうの木の話をヨハネによる福音書でなさっています(ヨハネ15章4、5節)。
15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
 イエスさまは、山上の説教で偽預言者を警戒しなさい、と言われました。偽預言者というのは、二千年前の時代のユダヤですと、律法学者やファリサイ派のことだろうか?と思いました。それは間違いではないと思いますが、それだけではないのです。私たちは自分自身の中にも、律法学者やファリサイ派の人たちと同じものがあること、罪があることを知らなければならないのです。

(むすび)
 今日は、久しぶりに主の晩餐式、パンと杯を配餐しての主の晩餐式を行います。この私の罪、羊の皮をかぶりながら狼のような心を持つ私、そういう私のために、主は十字架にかかってくださった。私を罪から救い、新しい生き方へと導いてくださった。その救いのみわざをみんなで一緒に感謝しようではありませんか。お祈りします。

祈り
恵み深い主なる神さま
 偽預言者に対する警告、それは、私たち自身に対する警告でもあります。私たちはどこまでも自分を誇ろうとしてしまう、自分の義、正しさを求めて生きてしまう者、主のみ心を行う者とは言えないような者です。
 そういう私たちが罪に支配された古い自分から、神さまと共に生きる新しい自分として生きることができるように、主は私たちの罪を担ってくださいました。イエスさまの救いのみわざ、十字架と復活を心から感謝します。私たちが、ただ主の恵みによって生かされていることを忘れることがありませんように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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