「本当に伝えるべきもの」マタイによる福音書9章27~34節 2023/11/05 SUN. 赤塚教会礼拝説教
聖書―マタイによる福音書9章27~34節
(はじめに)
お読みしました聖書の言葉は、「イエスがそこからお出かけになると」(27節)という言葉から始まります。イエスさまがそこからお出かけになられた。そこというのは、この箇所のすぐ前をお読みしますと、ユダヤの指導者の家のことでしょうか。そこには、指導者の娘が亡くなったことが書いてありました(18節)。しかし、主は父である指導者の願いに応えられて、その家に行き、亡くなった娘の手を取り、起き上がらせた、ということが書かれていました(25節)。イエスさまは、指導者の娘を起き上がらせた。死から命へ、と導かれました。その出来事が終わったら、イエスさまはそこからお出かけになられたのです。口語訳聖書では、「そこから進んで行かれると」となっていました。イエスさまは、人々との出会いを求めて、そこに留まらないで、そこから出かけられる、そこから進み行かれるのです。イエスさまは、そのようにして、私たちにも出会ってくださるのです。
(聖書から)
もう一度、27節をお読みします。
9:27 イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。
イエスさまが出会った人たち。ここに二人の目の見えない人たちのことが書かれていました。彼らは、このように叫んだ、というのです。「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」。「ダビデの子」と言いました。ダビデというのは、イスラエルの王の名前です。そして、このマタイによる福音書の最初に、こういう言葉が書かれています(1章1節)。
1:1 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
マタイによる福音書は、イエスさまの系図から始まっています。イエスさまは「アブラハムの子ダビデの子」であるとあります。これは、アブラハムの子孫であり、ダビデの子孫ということです。マタイによる福音書を書いたマタイという人は、ユダヤの人たちが関心を持つように、最初に系図を書いたのです。イエスさまという方は、ユダヤの人たちが尊敬するアブラハム、ダビデの子孫なのだ。アブラハム、ダビデの血筋から、私たちの待ち望んでいたメシア、救い主がお生まれになった。冒頭のこの言葉に導かれて、ユダヤの人たちは、この福音書を読んだのでしょう。
今日の個所に戻ります。二人の目の見えない人たちは、イエスさまのことを、「ダビデの子」と言いました。イエスさまのことを、メシア、救い主と知っていたのです。そして、「わたしたちを憐れんでください」と言ったのです。イエスさまが救い主であること、自分たちを憐れんでくださる方であることをなぜ、知っていたのでしょうか?私は、ローマの信徒への手紙の言葉を思い起こしました(ローマ10章14節)。
10:14 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。
二人の目の見えない人たちは、イエスさまのことをなぜ、知っていたのでしょうか。それは、イエスさまを宣べ伝える人がいたからです。聖書が示すメシア、救い主はイエスさまである、ということを伝え聞いたのでしょう。私たちはどうだったでしょうか?どこでイエスさまのことを聞いたでしょうか?友だちに誘われて教会に行って、そこで初めて聖書の話を聞いた、イエスさまのことを聞いた、という方がおられるでしょう。イエスさまを伝え聞き、信じた人には、イエスさまを人々に伝えていく大切な働きが与えられています。私たちも、イエスさまを伝えていきましょう。
28節をお読みします。
9:28 イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。
二人の目の見えない人たちは、イエスさまについて行きました。イエスさまは家に入ろうとした時、二人がそばに寄って来た、というので、イエスさまはこのように言われました。「わたしにできると信じるのか」。ところで、ここまで読んできて、不思議に思うことがあります。それは、二人の目の見えない人たちが「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言っているのに、イエスさまの方は、積極的には対応しておられないということです。しかし、彼らがイエスさまの家、この場合は、イエスさまが滞在していた家ということでしょうか、そこまでついて来た時、そこで初めて、イエスさまはこう言われたのです。「わたしにできると信じるのか」。イエスさまは、それまで、彼らの信仰をご覧になっていた、ということではないでしょうか。イエスさまの方から彼らに無理に信仰を強制することはなさらず、彼ら自身が信仰の道へと進まれることを、自分自身で主を求められることを待っておられたのです。そして、こう言われました。「わたしにできると信じるのか」。イエスさまは、私があなたがたの目を癒す、目を見えるようにする、と信じるのか、とお尋ねになりました。
彼らはイエスさまに対して、このように言いました。「はい、主よ」。イエスさまが彼らにお尋ねになったこと、「わたしにできると信じるのか」、これに対して、「はい、主よ」と答えたのは、主よ、あなたが私たちの目を癒してくださいます、目を見えるようにしてくださいます、と言っているのです。これをお聞きになったイエスさまはどうされたかというと、29節以下に書かれています。
9:29 そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、9:30 二人は目が見えるようになった。イエスは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。9:31 しかし、二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた。
「そこで、イエスが」とあります。彼らの信仰、信頼を確認され、主は彼らの目に触れ、このように言われました。「あなたがたの信じているとおりになるように」。主は彼らの信仰を受け止めてくださいました。イエスさまを信頼する心、イエスさまに期待し、イエスさまを希望とする心を受け止めてくださいました。そして、二人の目が見えるようになりました。彼らが見えるようになったのは、彼らの信仰の力、信心ではありません。主が触れ、主が語られたから見えるようになったのです。主のみわざが起こったのです。
彼らは見えるようになって大変喜んだことでしょう。しかし、主は続いて、こう言われました。「このことは、だれにも知らせてはいけない」。しかも、イエスさまは「彼らに厳しくお命じになった」とあります。なぜ、彼らが見えるようになったことを知らせてはいけなかったのでしょうか。イエスさまが私たちの目を見えるようにしてくださった!このことが人々の間で広まったら、多くの人たちがイエスさまのもとに集まって来たことでしょう。イエスさまを信じる人たちも起こされたのではないでしょうか。ところが、イエスさまは、二人の目の見えない人が見えるようになった。このことを知らせてはいけない、と言われたのです。
今、祈祷会では、イザヤ書を学んでいます。教会学校の学びと同じ個所ですが、そこには、来るべきメシア、救い主のことが書かれています。救い主とはどういうお方でしょうか。私たちは、救い主とはこういうお方だ、イエスさまとはこういうお方だ、とそれぞれの救い主のイメージ、それぞれのイエスさまのイメージを持つかもしれませんが、最も大事なことは、救い主について、イエスさまについて、聖書から聞いていくことです。
イエスさまが、二人の目が見えなかった人たちに、ご自分のなさったことを知らせてはいけない、と言われたのは、イエスさまが人々に本当に伝えたいことが伝わらなくなってしまうこと、イエスさまのことが、誤って伝えられていくことを心配されたためだったのではないでしょうか。イエスという人は、奇跡や癒しを行う人・・・。それだけが一人歩きしていくことを心配されたのではないでしょうか。イエスさまが本当に伝えたいこと、それは、福音です。福音、それはひとことで言うなら、神さまは私たちを愛しているということです。その愛を神さまはご自分のみ子であるイエスさまによって表してくださいました。イエスさまは救い主としておいでになりました。私たちを罪と死から救うために十字架のみわざをなさいました。私たち教会が伝えることは、このことです。私たちは、イエスさまが本当に伝えたいこと、福音を伝えているでしょうか。このことをいつも自問自答していく必要があると思います。
(むすび)
32節以下には、口の利けなかった人が、イエスさまによって癒されて、ものを言うことができるようになった、ということが書かれていました。ところが、そのことを聞いたファリサイ派の人たちはこう言っています。「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」(34節)。
先ほどの目が見えるようになった人たちとは、まったく正反対の態度です。イエスさまが人々を癒したり、悪霊を追い出したりしても、ファリサイ派の人たちは、イエスさまを信じないで、イエスという男は悪霊の力で悪霊を追い出している、と言って、どこまでも、イエスさまを批判するだけでした。
イエスさまが人々を癒されたのは、もちろん、悪霊の力によるのではありませんでした。イエスさまがなさった一つ一つのみわざ、それは、神さまの愛を表わすためでした。罪に苦しむ人たち、病に苦しむ人たちがイエスさまに出会い、神さまの愛によって救われるためでした。イエスさまは、私たちに出会ってくださいました。イエスさまに出会った私たちは、新たにイエスさまに出会う方があるように祈りつつ、イエスさまを伝えていきましょう。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
二人の目の見えなかった人たちが、イエスさまのもとについて行きました。主は彼らの信仰を確認され、彼らは「はい、主よ」と答えました。あなたは、私を信じているのか。このイエスさまの問いかけに、はい、と答えていく時、主はみわざをなさいました。私たちも、主の言葉に聴いて従う者でありますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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