「私たちの口は何を語るのか」マタイによる福音書12章33~37節 2024/07/14 SUN.
聖書―マタイによる福音書12章33~37節
(はじめに)
「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる」(33節)。お読みしました聖書は、こういう言葉から始まります。これをリビングバイブルという聖書の言葉をできるかぎり分かりやすく訳した聖書の訳で読んでみますと、このようになります。「木の良し悪しは、実で見分けます。良い品種は良い実をつけ、劣った品種は悪い実をつけるものです」。
良い品種の木と悪い品種の木だと、良い品種の木は、良い実をつける。悪い品種の木は、悪い実をつける。これは、当たり前のことですが、良い品種の木が、悪い実をつけること、悪い品種の木が、良い実をつけることは決してない、と言っているのです。
(聖書から)
イエスさまは、人々に、神さまの福音を語る時、身近なものから例えてお話しされました。そのようにして、イエスさまは、人々に分かりやすいようにお話しされましたが、それだけでなく、信仰というのは、私たちの身近なところ、生活の中でこそ、生きてくるもの、表されるものだということをお示しになったのです。私たちは、教会学校で聖書の言葉を学びます。礼拝で聖書の言葉を聞きます。また、家で、黙想、デボーションをする時に聖書の言葉を読みます。それは、何のためかというと、私たちの生活の中で、聖書の言葉によって生きるためです。
旧約聖書・詩編119編105節に、「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」という言葉があります。聖書、神さまの言葉、それは、私たちの人生の道の光、私たちの人生の歩みを照らす灯ということです。私たちの人生、生活の中で、聖書の言葉、神さまの言葉がどんなに力になるか、私たちを導いてくださるのかを知ることができるのです。
もう一度、今日の聖書個所の最初の言葉をお読みします。
12:33 「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。
イエスさまは、この言葉に続いて、このように言われました。
12:34 蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。
「蝮の子ら」と言われました。これは、誰に向かって言われたのでしょうか?蝮というのは、皆さんよくご存じだと思いますが、毒を持った蛇です。蝮は、日本にはいますが、聖書の舞台であるイスラエルにはいなかったようです。それで、新しい翻訳の聖書では、「蝮の子ら」というところを、「毒蛇の子ら」(聖書協会共同訳)と訳しました。
蝮、毒蛇。もしも、私たちが咬まれるようなことがあると、その毒によって生命の危機にさらされます。「蝮の子ら」。これは、イエスさまと論争していたファリサイ派の人たちのことを言っているようです。彼らは、毒を持っていたのです。その毒で、人を命の危機にさらすようなことをしていたのです。
イエスさまは、「蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか」と言われました。イエスさまは、ファリサイ派の人たちのことを率直に「悪い人間」と言われました。なぜ、「悪い人間」と言われるのでしょうか。人を生かすことをしないからです。そして、イエスさまは、あなたたちは、「悪い人間」なのに、どうして「良いこと」が言えようか、と言われました。
「悪い人間」が「良いこと」を言う。今日の聖書の言葉の最初のところでイエスさまが言われたこととは、違います。イエスさまは、良い品種の木からは、良い実がつく。悪い品種の木からは、悪い実がつく、と言われました。けれども、ファリサイ派の人たち、彼らは、悪い人間なのに、良いことを言っている。それは、おかしなことだ、とイエスさまは言われたのです。
このイエスさまとファリサイ派の人たちのやり取りを読むと、私は、ドキッとするのです。私は、聖書から、良い言葉を語ってきたつもりです。でも、私自身が、良い人間か?というと、心の中には、良いことも、悪いことも、いろいろと入り混じっているような人間です。ですから、私も、イエスさまから、ファリサイ派の人たちと同じことを言われるのではないか?と心配します。
34節の後半を見てみますと、「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」とあります。ファリサイ派の人たちは、神さまの掟、神さまの言葉をよく学んでいた人たち、よく知っていた人たちでした。
旧約聖書・詩編119編11節には、「わたしは仰せを心に納めています/あなたに対して過ちを犯すことのないように」という言葉があります。私は、神さまの掟を、神さまの言葉を心に納めることに努めています、と言っているのです。それは、神さまに対して罪を犯すことのないようにするため、というのです。
イエスさまは、ファリサイ派の人たちに、こう言われました。「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」。あなたがたは、神さまの掟、神さまの言葉を学び、人々にも教えているが、あなたがたの心の中はどうか?というのです。神さまの言葉が、あなたがたの心を支配しているか?と言われるのです。
私たちはどうでしょうか?私たちは、以前は、自分の人生の主は、自分自身でした。イエスさまに出会って、イエスさまを信じた時、イエスさまを私の救い主、人生の主と告白しました。その告白は、今も続いているでしょうか?私の人生、私の日々の生活においても、私の主はイエスさま。そのような歩みを続けているでしょうか?
12:35 善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。
イエスさまは、今度は、倉の話をされました。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出します。一方、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出します。ここで「倉」というのは、私たちの心のことを言っているようです。私たちの心に、良いものを入れているだろうか?それとも、別なものを入れているだろうか?
先ほどの詩編の言葉を振り返ってみましょう。「わたしは仰せを心に納めています」(詩編119編11節)。イエスさまが言われた「良いものを倉に入れる」ということと同じことが言われているようですが、この「心に納める」ということ、それはただ私たちが、物置か何かに、物をどんどん詰め込んでいく、というようなことではありません。リビングバイブルでは、「わたしはおことばを深く味わい、心にたくわえました」となっています。神さまの言葉を「深く味わう」とあります。
テモテの手紙二3章16節では、聖書について、このように語られています。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」。
聖書は、神さまの霊、聖霊の導きによって書かれたもの、とあります。そして、「人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益」ともあります。つまり、聖書の言葉は、私たちの生活のただ中で、聞くべき言葉なのです。ところが、聖書の言葉は知っているけれど、それが生活とはかけ離れていた人たちがいた。そこで、イエスさまは、厳しく語られたのです。「あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」。
(むすび)
12:36 言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。12:37 あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」
「つまらない言葉」とあります。「無益な言葉」(口語訳、新改訳2017)とも訳されます。この「つまらない言葉」について、これは、悪い言葉、人を傷つける言葉、と解説される方がいます。「すべて、裁きの日には責任を問われる」とありますように、裁きの日、私たちが地上での人生を終えた後になるでしょうか。その日には、神さまから、私たちの語った言葉について、責任が問われるというのです。人の悪口を言った人は、時が経つと、そのことをすっかり忘れるかもしれません。私もずっと忘れていたのが、何かの拍子に、ふと思い出すことがあります。「ああ、あの人にあんなことを言ってしまった・・・」。思い出すと、その時には何か苦々しい気持ちになります。「あの時は悪かったなあ」と思いますが、言われた方は、いつまでも忘れないと思います。もしかして、その傷をずっと引きずったままでいるかもしれません。それだけではありません。裁きの日に、神さまは、その言葉について、責任を問われる、というのです。それほどに、言葉というのは、大事なものなのです。
私は、「あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」。このイエスさまの言葉を聞いて、心がえぐられるような気持ちがしました。神さまの前には、決して、正しい人間とは言えない。そういう私ですが、神さまの言葉をいただいて、味わっていく中で、こんな私が、それでも神さまに愛され、赦され、受け入れられている・・・。そのことを知らされ、神さまの言葉によって日々、変えられていく、新しくされていく。そういう歩みを続けさせていただいているのです。神さまの恵みに対して、感謝でいっぱいです。
コロサイの信徒への手紙3章15節に、「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい」とあります。同じくコロサイの信徒への手紙3章16節には、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」ともあります。神さまの言葉を心に納めるというのは、神さまの言葉が、私たち自身の心を支配する、ということであり、神さまの言葉が、私たちの内に豊かに宿ることだと思います。今日の説教題は、「私たちの口は何を語るのか」としましたが、その前に、私たちは、神さまの言葉をどう聞くか、ということが大事です。「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい」。「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」。この言葉を私たちの祈りとしていきたいと思います。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
私たちが良い木であるイエスさまにつながらせていただいたこと(ヨハネ15章1~5節)を心から感謝します。どうか、あなたの言葉が私たちを支配し、私たちの口から出る言葉が、神さまの恵みを語る言葉となり、人を生かす言葉となりますように導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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