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「キリストと教会」エフェソの信徒への手紙5章21節~6章9節 2024/ 4/21 SUN.

「キリストと教会」エフェソの信徒への手紙5章21節~6章9節 2024/ 4/21 SUN. 赤塚教会礼拝説教

聖書―エフェソの信徒への手紙5章21節~6章9節
(はじめに)
お読みした聖書の言葉には、三つの関係についての勧めが書かれていました。第一は、妻と夫です。第二に、子と親。そして、第三に、奴隷と主人です。これらは、今から二千年前の時代、家、家庭を構成する人たちの関係です。家、家庭と言いますと、今ではもう聞かれなくなっている言葉で、家訓というものがあります。代々、その家に伝えられてきた守るべき戒め、教えです。ここに書かれていることは、家訓のようなものと言ったらいいでしょうか。聖書が教える家訓です。家、家庭、そして、教会を建て上げるためにはどうしたらよいのかというメッセージがここに語られていると思います。

(聖書から)
 この三つの関係に対する勧めが語られるにあたって、最初にこのようなことが語られていました。
5:21 キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。
 これは、これらの勧めの前文のようなものですが、また結論と言ってもいいでしょう。互いに仕え合う関係。妻と夫、子と親、奴隷と主人というのは、互いに仕え合う関係なのだ、というのです。「互いに仕え合いなさい」という言葉の前には、とても大切なことが語られています。それは、「キリストに対する畏れをもって」ということです。互いに仕え合うこと。その動機、出発点は、キリストに対する畏れなのだ。キリストに対する畏れから互いに仕え合うように、ということです。
 動機、出発点というのは、とても大切です。例えば、私たちが神さまに従っていく生活、これを教会生活、信仰生活と言いますが、礼拝を守ること、イエスさまを人々に伝えること、献金をささげること、奉仕をすることなどがあります。では、その動機、出発点は何でしょうか?どんな動機、出発点からでもいい、というわけではないでしょう。自分自身が動機、出発点なら、その行うことは、自分の誇りとなってしまいます。自分があれをやった、これをやった、と自分の勲章、手柄のようにして自分を誇るということ、それは、神さまに喜ばれることでしょうか?私たちは、キリストに対する畏れから行う。それは、イエス・キリストが、この私を罪と死から救ってくださるために十字架にかかってくださった。神さまに対する感謝と喜びからすべてのことを行うということです。そこには、自分を誇るものは何もありません。ただ主を誇るのみです(二コリント10章17節参照)。ただ主の救いの恵みを誇るのみです。
 互いに仕え合う。それは、キリストに対する畏れから行うと言いました。イエス・キリストが私を愛してくださり、私のために仕えてくださった。イエスさまは、十字架におかかりになる前、ご自分の弟子たちと食事を一緒にされました。最後の晩餐と言われる時のことです。その時、イエスさまは、弟子たち一人一人の足をお洗いになりました。当時、足を洗うというのは、奴隷のすることでした。当時の靴はサンダルのようなものでしたから、外を歩くと、足には砂ぼこりなどが付きます。それで、家に入る時には、奴隷がその汚れた足を洗ったのです。ところが、この時には、イエスさまが弟子たちの足をお洗いになりました。これは、弟子たちにとっては、大変驚くことでした。イエスさまは、弟子たちの足をお洗いになり、そのことの意味をお示しになりました(ヨハネ13章14、15節)。
13:14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。
 イエスさまは、ご自分が奴隷、僕として、仕える者として世に来られたことをお示しになりました。そして、弟子たちにも互いに足を洗い合うように、と言われたのです。互いの足を洗い合う。それは、互いに仕え合うということです。また、足というのは、体の中で一番汚れるところです。私たちの一番汚れているところとはどこでしょうか?それは、私たちの心です。なぜなら、そこに罪があるからです。その罪が取り除かれるように(「世の罪を取り除く神の小羊」ヨハネ1章29節参照)、主は十字架におかかりになりました。主が私たちの罪を赦し、罪から救ってくださった。そのことを知る私たちは、互いに赦し合うのです。互いに仕え合う。互いに赦し合う。それは、イエスさまがこの私のために仕えてくださったから。イエスさまがこの私のために赦してくださったから。その動機、出発点から行うのです。
 妻と夫の勧めについて、お読みすると分かりますが、妻と夫の関係をキリストと教会の関係になぞらえて語っています。夫と妻というと、まだその途上かもしれませんが、現代は対等な関係という方向に向かっていると思います。けれども当時はそうではありませんでした。夫は妻よりも強い立場にありました。ですから、ここには、「夫は妻の頭」(23節)と言われています。同じ個所には、「キリストが教会の頭」とあります。私たちは、教会の頭、教会の中心、教会の主、それは、イエス・キリストであると知っています。「キリストが教会の頭」ということを知ることで、教会は、人間が主ではない、人間が中心でもない。キリストが主、キリストが中心、そのことを頭に置きながら、教会の歩みをしていくことを教えられます。そして、ここでは、「キリストが教会の頭」、これになぞらえて、「夫は妻の頭」と言われています。頭というのは、力ある立場、強い立場であり、力のない立場に置かれている相手、弱い立場に置かれている相手に対して、責任があるということです。イエスさまは、教会、すなわち、私たちに対して、すべての責任を担ってくださっています。私たちは、そのことを喜びたい、感謝したいと思います。また、私たちも、イエスさまと私たち教会の関係に倣って、家族との関係においても、相手の弱さをおぼえる時、その弱さを支えていくこと、担っていくことに努めていくのです。
 さて、この三つの関係の勧めですが、妻と夫、子と親、奴隷と主人とありました。妻、子、奴隷というのは、弱い立場にある人たちであり、夫、親、主人というのは、強い立場にある人たちと言えます。これらの勧めを読んでいきますと、気づかされることは、妻は夫に仕えるように(聖書協会共同訳は「従うように」)、子は親に従うように、奴隷は主人に従うように、となっていますが、夫と親、主人については、夫は妻を愛するように、親は子を育てるように、主人は奴隷を脅すのを止めるように、となっています。この違いは何でしょうか?私は、前に働きをさせていただいた教会で、ある方から、こういう質問を受けたことがあります。「この聖書に書いてあるように、私は夫を愛さなくてもいいのですね。私は仕えるだけでいいのですね?」この質問に対しての返答には大変困りました。
 妻と夫、子と親、奴隷と主人、双方の関係について、妻、子、奴隷には、仕えなさい、従いなさい、という言葉が語られているのに、どうして、夫、親、主人に対しては、愛しなさい、育てなさい、脅すのをやめなさい、という違った言葉が使われているのでしょうか?ある聖書の注解者は、強い立場である夫、親、主人に対しては、仕えなさい、ということを、愛しなさい、育てなさい、脅すのをやめなさい、とより具体的な言葉で言い表しているのだ、と説明しています。では、なぜ、具体的な言葉で言い表しているのかというと、仕えなさい、というこの勧めをもっと強い意味で言っているのではないかと思います。つまり、強い立場にあるあなたがたは、弱い立場にある相手以上に仕えなければならない、と言っているのではないかと思うのです。
 夫に対する勧めの部分を読んでみます。
5:25 夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。
5:28 そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。
 キリストが教会を愛したように、夫は妻を愛しなさい、と言われています。28節の言葉については、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19章18節)の言葉を思い起こさせます。自分自身のように、相手を愛するのです。
 親に対する勧めをお読みします。
6:4 父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。
 「子供を怒らせてはなりません」という言葉は、シンプルな勧めですが、具体的に、実際的には、どう考えたらよいのでしょうか。このことを考えるヒントとして、コロサイの信徒への手紙3章21節も併せて読んでみます。
3:21 父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです。
 ここには、「いらだだせてはならない」、「いじけるといけない」とあります。こちらの言葉の方がより具体的な勧めになっているように思います。いらだたせない、いじけさせない。そこには、愛するとか、励ますといったことが必要になってくると思います。育てるためには、愛すること、励ますことはとても大事なことだと思います。そして、6章4節の後半には、「主がしつけ諭されるように、育てなさい」とあります。しつけ諭す、それも、「主がしつけ諭されるように」とあることに注意したいと思います。
神さまがしつけ諭されるように。考えてみますと、私たちも神さまから、しつけ諭されて育てられてきた一人一人なのではないでしょうか。詩編119篇67、71編にはこのような言葉があります。
119:67 わたしは迷い出て、ついに卑しめられました。今からは、あなたの仰せを守らせてください。
119:71 卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。
 新共同訳で「卑しめられた」と訳されている言葉は、「苦しみにあった」(口語訳、その他)とも訳されている言葉です。卑しめられた、苦しみにあった。つまり、試練に遭ったことが言われていますが、そのことを通して、「あなたの仰せ」、「あなたの掟」、神さまの言葉を教えられた、というのです。その苦しみ、試練を通して、本当に信頼できる方は神さまなのだ。神さまの言葉に生きることこそが最善なのだ。そのことを身を持って教えられた、ということが言われているのです。
 私たちも、この詩編の詩人のように、やはり身を持って教えられてきたのではないでしょうか。そういう私たちは、私たちの子供たちにも、次の世代にも、神さまと共に生きること、神さまの言葉によって生きること、その恵み、豊かさを伝えていくのです。
 主人に対する勧めについて、6章8節からお読みします。
6:8 あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。6:9 主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。
 8節にありますように、この時代の奴隷、ここでは家庭の中の奴隷、奴隷というよりも僕と言ったらいいでしょうか、それでもやはり身分の低い者とされていた人たちでした。しかし、どんな身分であっても、神さまのみ心に適った善いことを行うなら、神さまから報いを受ける、と言われています。そして、これに続いて、主人に対する勧めが語られています。
 「主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい」。具体的な勧めとして、「彼らを脅すのはやめなさい」とあります。その後には、「彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらない」。奴隷制度を直接否定してはいませんが、聖書の信仰に基づく考えが示されています。神さまこそが、主人であるあなたがた、奴隷である人たちの本当の主人であり、その本当の主人である神さまは人を分け隔てなさらない。神さまは人を分け隔てなさらない方であることが、ここにはっきりと語られています。

(むすび)
 今日の聖書個所では、特に強い立場にある人たちへ語られた勧めに焦点を当ててお話ししましたが、どちらの立場にも語られていたことは、「主に仕えるように」(5章22節)、「主に結ばれている者として」(6章1節)、「キリストに従うように」(6章5節)ということでした。ここから示されることは、私たちのどの関係においても、主が介在される、主が間におられるということです。私とあなた、その間には、主がおられる。十字架におかかりになった主がおられる。そして、主がこの私に仕えてくださった、私を愛してくださった。それは、私が主にお仕えするため、主を愛するためであり、私たちが互いに仕え合うため、互いに愛し合うためであるということ。このことを心に留めて歩んでいきたいと思います。

恵み深い私たちの主なる神さま
 主は、仕えられるためではなく、仕えるために、私たちのところにおいでになりました(マタイ10章45節)。お読みした聖書には、家を建て上げるために、教会を建て上げるために、必要な勧めが語られていました。主を畏れること、すなわち、主が私たちになさった愛をおぼえ、これを喜び、感謝すること、それを動機として、出発点として、互いに仕え合うことを教えてくださってありがとうございます。主が私たちになさったように、互いに仕え合い、歩む時、私たちの家は、私たちの教会は、キリストご自身を表すものとなります。世にあって、キリストを表す家として、キリストを表す教会として私たちを用いてください。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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