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知恵と奇跡を行う力 マタイによる福音書13章53~58節 2024/10/13

知恵と奇跡を行う力 マタイによる福音書13章53~58節 2024/10/13 赤塚教会礼拝説教

聖書―マタイによる福音書13章53~58節
(はじめに)
 お読みしたマタイによる福音書13章には、イエスさまが人々にたとえ話を語られたことが書かれていました。そして、たとえ話を語り終えられた後、イエスさまは弟子たちに言われました。51、52節をお読みします。
13:51 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。13:52 そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」
 イエスさまは、弟子たちにこのようにお尋ねになりました。「あなたがたは、これらのことがみな分かったか」。ご自分が語られたことについて、「これらのことがみな分かったか」と言われたのです。これに対して、弟子たちは何と答えたかというと、「分かりました」と答えています。イエスさまが言われたことがみんな分かった。私は、このやり取りを読んでいて、イエスさまの弟子たちは、イエスさまの言われたことが本当に分かったのだろうか?と思いました。
 私たちが聖書を読む。神さまの言葉として、神さまの言葉と信じて読む。でも本当に分かっているのか、というと、そうとは言えないと思います。正直なところ、分からないこともあります。いいえ、分からないことだらけだと思います。また、時には分かったつもりになっていることもあります。けれども、この弟子たちのように私たちも、「分かりました」と答えていきたいと思うのです。ここで弟子たちが「分かりました」と言ったのは、イエスさまの言われたことがすべて分かった、正しく理解した、ということではないと思うのです。イエスさまの言われることを、イエスさまご自身を受け入れます、ということです。
 イエスさまと弟子たちのやり取りが書かれている箇所を読んでみたいと思います(ルカ5章3~6節)。
5:3 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。5:4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。5:5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。5:6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
 主は漁師シモン(ペトロのこと)に漁をするように言われました。しかし、シモンは言います。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。シモンは、イエスさまが漁をするように、と言われたことに対して、自分たちは夜通し漁をしたけれども、何も獲れませんでした、と言いました。漁のことなら、イエスさまよりも漁のプロフェッショナルであるシモンの方が分かっているはずです。けれども、シモンはこの後、このように言うのです。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。これは、自分が納得したから、というのではなく、イエスさまが言われた言葉を信頼して、私は従います、ということです。シモンがイエスさまの言葉に従って網を降ろしたところ、網が破れそうになるほど大漁になった、ということです。主の言葉に従う時、そこで主のみわざを体験したという出来事です。
「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。弟子たちの「分かりました」というのは、これと同じことだと思います。イエスさまが言われた言葉を私は聴いて歩みます、イエスさまの言葉に従います。私たちも、「分かりました」、「お言葉ですから」。この弟子たちのように、私たちもイエスさまの言葉を聴いて歩んでいきたいと思います、イエスさまの言葉に従っていきたいと思います。

(聖書から)
 イエスさまは、たとえ話を語り終えた後、ご自分の故郷に帰られたことが今日の聖書個所に書かれていました。ここで、故郷というのは、どこのことかと言いますと、ナザレのことです。ルカによる福音書に、今日の聖書個所と共通の記事があります。そこには、「イエスはお育ちになったナザレに来て・・・」(ルカ4章16節)とあります。ユダヤのベツレヘムでお生まれになったイエスさまは、その後、ナザレでお育ちになりました。そして、会堂で教えられた、ということです。
 イエスさまが会堂で教えておられると、人々は驚いた、ということです。その驚きというのは、大きな驚きであったようで、「仰天し」(岩波訳)、「驚愕し」(田川訳)とも訳されます。人々はイエスさまのことをこのように言いました。53節からお読みします。
13:53 イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、13:54 故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。13:55 この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。13:56 姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」
 人々というのは、故郷であるナザレの人々のことでしょう。彼らはこのように言いました。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう」。マルコによる福音書では、もう少し詳しく書かれています。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か」(マルコ6章2節)。おそらく、イエスさまは、故郷であるナザレで、神さまの言葉を語られ、力あるわざを行われたのでしょう。そのことを見て、聞いて、人々は大変驚いて、そのような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのか、と言ったのです。
 続いて、人々は、このようなことも言っています。「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか」。人々は、イエスさまのことを知っていました。イエスさまが、大工の息子であること、また母親はマリアという人であり、その兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダで、さらに姉妹もいたこと。私たちは、イエスのことは知っている。その家族のことも知っている、と言っているのです。
 そして、繰り返し、こう言いました。「この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう」。「どこから得たのだろう」。イエスという人が語ったこと、行なったこと、それは、驚くような知恵と奇跡を行う力である。それは、いったいどこから得たのか。このように言いながらも、どこから、ということを考えることはしなかったようです。それは、次の言葉から分かります。
13:57 このように、人々はイエスにつまずいた。
 「人々はイエスにつまずいた」とあります。「イエスにつまずいた」というのは、イエスさまが語った知恵、行なったわざ、それがどこから来たのか、そのことが分からないままであった、ということです。私たちは幸いにも、イエスさまが語った知恵、行なったわざ、それがどこから来たのかを知っています。神さまから来たことであると知っている、信じています。しかし、イエスさまの故郷の人々は、イエスさまを信じることができなかった、イエスさまを神の子、救い主と信じることができなかったのです。
 なぜ、イエスさまを信じることができなかったのでしょうか。それは、イエスさまを知っていたからです。イエスさまが、大工の息子であること、母親はマリア、兄弟も、姉妹も知っている。知っているからこそ、信じることができなかったのです。彼らは、自分たちが今まで知っていたイエスさま、そこで留まっていたから信じることができなかったのです。私たちはどうでしょうか?聖書のこと、神さまのこと、知ってはいます。でも、私たちの知っている理解とか、範囲というのは、どれほどのものでしょうか。むしろ、聖書について、神さまについて、知らないことの方が多いのではないでしょうか。だから、私たちは、信仰生活って、イエスさまを信じて生きる人生なんて、まあ、こんなものだ、と言って、悟ったようなことは言えないと思います。もっともっと、イエスさまを知っていきたいと思います、神さまの恵みがどれほどのものか、知っていきたいと思います。
 イエスさまにつまずいた故郷の人たち。そのことについて、イエスさまは、このように言われました。
13:57 イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、13:58 人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。
 「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」。これは先ほどの故郷の人たちの言葉からも分かります。イエスさまの子供時代を私たちは知っている。あの小さな子供が神さまの言葉を語るなんて、神さまのみわざを行うなんてありえない!イエスさまが、神さまの言葉を語られたのを聴いても、イエスさまが、神さまのみわざを行われるのを見ても、それでも信じなかったのです。
 ある牧師先生は、このイエスさまの言葉から、このように言われました。「人々は、自分の故郷に、イエスさまを迎え入れなかった。自分の家族に、イエスさまを迎え入れなかった」。少し前に読んだ聖書の個所を振り返ってみたいと思います。イエスさまは、ご自分の弟子たちにこのようなことを言われました。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」(12章49、50節)。この時、イエスさまの母と兄弟たちが、イエスさまと話したいと外にいました。それで、ある人が、イエスさまに、あなたの母と兄弟たちが話したいと外にいますよ、と言ったのです。それに対して、イエスさまは、このように言われました。「わたしの天の父の御心を行う人」。それは、神さまのみ心を受け入れる人、神さまのみ子であるイエスさまを受け入れる人のことです。その人は、イエスさまの家族なのです。イエスさまは、ナザレに帰られて、ここは私の故郷、この人たちは私の家族、そのように言いたかったのではないでしょうか。けれども、人々はイエスさまを受け入れなかったのです。

(むすび)
 あるキリスト教主義学校の先生に聞いた話です。その学校のモットーは、三つの愛だということでした。第一に、神さまを愛すること。第二に、人を愛すること。そして、第三に、土地を愛することだというのです。そのような思いをもって、この学校はキリストの愛を証ししていくのだ、と言われました。ちょうど、その話を聞いた時、私は東京のある教会で副牧師をしていて、その働きを終えて、新しく地方の教会に遣わされていく時でしたので、これは本当に良い話を聞いたと思いました。私が遣わされるその地で、神さまを愛すること、その地に住む人々を愛すること、その地を愛することに努めていこうと決心して、新しい地での働きを始めたことを思い出します。
 私の故郷、あるいは私の住んでいる地、そこは、イエスさまの故郷、イエスさまの住んでいる地。私の家族、それは、イエスさまの家族。イエスさまはここにおられる。イエスさまが一緒におられる。そのことを信じていく時、そこで私たちは、神さまの知恵と奇跡の力、神さまの愛のみわざを知ることができる、体験することができるのではないでしょうか。お祈りいたします。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
 イエスさまが故郷にお帰りになり、そこで神さまの言葉を語り、みわざを行いました。しかし、故郷の人々は、イエスさまを神の子、救い主と信じることができませんでした。自分たちの知っている理解、範囲に留まり、イエスさまを本当には知ることができませんでした。
パウロはこのように祈りました。「あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」(エフェソ3章18、19節)。私たちを、私たちの思いをはるかに超えた神さまの恵みを、みわざを知る者にしてください。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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