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愛する者として生きる ヨハネの手紙Ⅰ 4章13~21節 2025年6月15日 

愛する者として生きる ヨハネの手紙Ⅰ 4章13~21節 赤塚バプテスト教会(朝・夕)礼拝説教 石堂雅彦牧師 (ゴスペル・ライヴ礼拝)

2025年6月15日 主日礼拝(朝・夕拝)説教 「愛する者として生きる」
聖書―ヨハネの手紙一4章13~21節
(はじめに)
 本日の〔朝の〕礼拝は、ゴスペルライブ礼拝として行っています。この礼拝の後に、青山学院大学のゴスペルクワイアの皆さまによるゴスペル・コンサートになります。楽しみにしてください。
 お読みした聖書の言葉は、ヨハネの手紙一4章13節からの言葉です。先ほど、ゴスペルと言いましたが、これは音楽のジャンルの一つとして知られていますが、元々ゴスペルという言葉の意味は、福音ということです。教会で読まれ、語られる聖書には、その福音というものが書かれています。では福音とは何かというと、良い知らせということです。今から、その良い知らせのお話をします。そして、その後、皆さんには、たっぷりと、ゴスペル、福音、良い知らせの歌声を聴いていただきます。

(聖書から)
 そういうわけで、何が良い知らせというのでしょうか?お読みした聖書のヨハネの手紙一4章14節には、こういう言葉がありました。
4:14 わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。
 ここに書かれていることは、神さまが、ご自分のみ子であるイエス・キリストを救い主として、この世に、私たちの生きているこの世界に遣わされた、ということです。イエス・キリストが私たちのところに来てくださったこと、これが、聖書が示す、良い知らせということです。
 それでは、イエス・キリストという方は、この世に来られて、何をされたのでしょうか?そのことが言い表されている聖書の言葉を読んでみます(一ペトロ2章24節)。
2:24 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。
 イエス・キリストが十字架にかかったことの意味が書かれていました。それは、イエス・キリストが十字架におかかりになることで私たちの罪を担ってくださったこと、そのことによって、私たちが罪に支配された生き方から離れ、神さまと共に生きるためだった、というのです。
ところで、教会に行くと、罪とか、罪人という話を聞くから嫌だ、と言われる方があります。確かに、あなたには罪があるとか、あなたは罪人だ、なんて言われると良い気持ちはしないでしょう。あるアメリカ人の宣教師の先生が、聖書が言っている罪について、こういう説明をされました。罪という言葉は、英語では、SIN(スイン)と書きます。SIN、この文字の真ん中には、Iという文字があります。I、これは私ということです。つまり、聖書が言っている罪というのは、私が真ん中という生き方、私が中心という生き方です。神さまを信じるというのは、その私が真ん中、私が中心という生き方を止める。そして、神さまを真ん中、神さまを中心にして生きるということです、とお話しされました。いかがでしょうか、罪とは、自己中心の生き方、罪から離れるとは、神さまを中心とする生き方です。
 16、17節にはこのような言葉が書かれていました。
4:16 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。4:17 こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。
 ここには、「愛」という言葉が出てきました。「わたしたちに対する神の愛」とありました。イエス・キリストは十字架にかかってくださいました。それは、私たちが罪に生きることを止めて、自己中心、愛の無い生き方を止めて、互いに愛し合う、互いを大切にし合う生き方をするようになさったことでした。イエス・キリストは、どこまでも人のために生きられた方であり、死なれた方でした。その究極が十字架でした。
 続いて19節をお読みします。
4:19 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。
 ここで言われていることは、「わたしたちが愛するのは・・・」とありますが、愛の動機ということです。愛する、ということを考えると、自分が愛された経験がない、あるいは愛されたという思いが、意識がないという人が、愛するというのは難しいことだと思います。ここには、このようなことが言われていました。「神がまずわたしたちを愛してくださった」。神さまがまず、私たちを愛してくださった、というのです。ここにおられる皆さんにぜひ、おぼえてほしいこと、それは、あなたは神さまに愛されている、ということです。

(むすび)
 20、21節をお読みします。
4:20 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。4:21 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。
  神さまを愛すると言いながら、目の前にいる人を憎んでいたら、それは偽り者だ、というのです。厳しい言葉ですね。私たちは、自分を愛してくれる、大切にしてくれる人に対しては、自分もまた愛そう、大切にしようとするでしょう。でも、そうでない人のことは愛せない、愛する必要もないと思うのではないでしょうか。けれども、ここで言われていることは、神さまを愛するとは、目の前にいる人を愛することなのだ、というのです。自分を愛している、いないに関係なく、愛するように、というのです。これは本当に難しいことだと思います。そんなことは無理です!と言いたくなるような言葉ですが、ここには、「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」とあります。掟、戒めとか、命令とも訳すことのできる言葉です。愛することは神さまの命令だというのです。
 ここで考えてみたいことは、人を愛すること、大切にすることについて、それができるかできないか、ということをただ論じてみたり、またあきらめたりすることではなく、真剣に向き合ってみることです。そして、このことで悩むこと、なぜ愛せないのか、許せないのか、そういうことを考えてみるのも大事なことだと思います。
もう一度、ただいまの聖書の言葉を読んでみますと、「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」とありました。ここに書いてあることは、私たちを責める言葉ではなくて、私たちの現実を示す言葉だと思います。私たちは、このような言葉を通して、神さまから、愛するということについて、一つのチャレンジを受けているのではないかと思うのです。
ある哲学者の話ですが、この方は、「心の一隅(いちぐう)」ということを話しています。それはどういうことかというと、私たちには、誰にも知られたくない心の一隅があるというのです。それは、心の闇の部分と言ってもいいと思います。自分の心の中にある醜い部分、隠したい部分・・・。最近よく使われている言葉で言うなら、黒歴史ということでしょうか。けれども、誰にも言えない、その心の一隅でこそ、私たちは、神さまに出会うことができるというのです。
私たちは、お読みした聖書の言葉で言えば、偽り者、愛さない者、愛せない者とありましたが、そういう部分が正直なところ、幾つもあると思います。そして、それは誰にも言えないことであり、言いたくないことでもあると思いますが、神さまはそのすべてを知っておられるのです。私たちの心の奥底までも、心の中の闇の部分までも知っておられるのです。そして、そういう私たちを責め立てるのではなく、そういう私たちを受け止めておられる。そういう私たちをそれにもかかわらず、愛しておられる、愛し続けておられる。愛とは何かを教えてくださっている。それが、イエスさまという方であり、その生き方を通して、十字架を通して、神さまの愛がどのようなものであるかを示されたということなのです。今日は、そのこと一つでも、おぼえていただけたら大変嬉しく思います。今日の説教題は、「愛する者として生きる」としましたが、「愛されている者として生きる。そして、愛する者として生きる」としたほうがよかったかな?と思っています。それでは、お祈りいたしましょう。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
 本日の礼拝は、青山学院のゴスペルクワイアの方々をお迎えして、ゴスペルライブ礼拝として行っています。ゴスペルクワイアの歌声によって、ゴスペルが、福音が、良い知らせが人々に届き、神さまの励まし、慰めを受けることができるように導いてください。
 イエス・キリストの愛は、すべての人に注がれている愛です。私は神さまに愛されている!とこの愛を受け取って、愛する者として生きる方々がありますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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