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「豊かな報いを受けるように」ヨハネの手紙二7~13節 2025年11月16日

豊かな報いを受けるように ヨハネの手紙Ⅱ 7~13節 赤塚バプテスト教会(朝・夕)礼拝説教 石堂雅彦牧師

(はじめに)
  ヨハネの手紙二の後半の個所をお読みしました。今日は7節からお読みしましたが、7節には、このようなことが書かれていました。
1:7 このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです。
 「このように書くのは」とあります。これはその前に書いたことを言っています。その言葉を読んでみます(二ヨハネ5、6節)。
1:5 さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです。1:6 愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです。
 この手紙を書いたヨハネは、神さまの掟(別訳では、戒め、命令)について言っています。その掟について、「わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということ」とあります。この言葉は、ヨハネの手紙一にもありました(一ヨハネ2章7、8節)。
2:7 愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。2:8 しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。
 「古い掟」とか、「新しい掟」というと、何か頭がこんがらがってしまいそうですが、「古い掟」について、「あなたがたが初めから受けていた古い掟」とあります。先ほど読んだヨハネの手紙二の6節でも、「初めからわたしたちが持っていた掟」と書かれています。あなたがたが、キリストを信じてから、ずっと教えられてきた掟ということです。
 一方、「新しい掟」ということについては、「わたしは新しい掟として書いています」とあります。この新しさというのは、時間的なことではありません。今まで聴いてきた掟を、今、新しく聴くように、ということです。
 私たちはどうでしょうか?自分は何年も前に、クリスチャンになった。もう前から、この聖書の言葉は学んできて、よく分かっている。そんなふうに考えて、今、新しく聖書の言葉を、神さまの言葉を聴くこと、学ぶことを止めてしまうようなことはないでしょうか?もう何年も前に聴いた、学んだ言葉が、今、新しく、この私に語りかけられている。私たちはそんなふうにして、神さまの言葉を聴いていきたいと思うのです。

(聖書から)
 神さまの言葉は、古い掟、私たちがずっと前から聴いてきた言葉です。そして、新しい掟、今、新しく語りかけられる言葉です。その神さまの言葉の中心は何か、ということが、ヨハネの手紙二の5節に語られていました。「わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということ」。「互いに愛し合う」。これが、神さまの言葉の中心です。互いに愛し合う、というと、私たちがお互いに愛し合うということだと考えます。それは間違いではありません。しかし、6節には、このように書かれていました。「愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです」。ここには、「愛とは、御父の掟に従って歩むこと」とあります。神さまの言葉に従って歩むことが言われています。神さまの言葉に従う。少しかみ砕いて言うなら、神さまご自身を信頼し、神さまの言葉を信頼し、それを拠り所として生きるということです。つまり、神さまが私たちに求められる愛とは、私たちが互いに愛し合うこと、私たちが神さまを愛すること、具体的に言うなら、神さまを信頼して生きるということです。
 続いて、6節の後半には、「この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むこと」とありました。「愛に歩む」。ここで言われている愛というのは、私たちの愛というよりも、神さまの愛のことです。私たちが神さまの愛を知って、その愛に生きようと努めることです。神さまが、私たちにお示しになった愛、それは、私たちを罪から救うために、ご自分の命をささげられた愛です。私たちは、イエスさまを信じた最初の頃は、イエスさまの十字架の愛ということがまだぼんやりとしてしか分からなかったかもしれません。しかし、信仰生活を歩む中で、自分が愛することに努めていく時、少しずつ、神さまの愛を知らされていくのです。信仰が成長するとは、神さまの愛を知ることの成長です。
 そして、今日の聖書の言葉、7節をお読みします。
1:7 このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです。
 「人を惑わす者が大勢世に出て来た」。何を持って惑わすのかというと、「彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません」とあります。「イエス・キリストが肉となって来られたこと」、それは、イエスさまが、この世においでになった。私たちのところにおいでになったということです。イエスさまは、神さまのみ子、神さまであるのに、私たちと同じ人として来られた、ということです。ところが、そのことを否定する人たちが、当時のキリスト教会に入り込んできたのです。その人たちというのは、グノーシス主義と言われる思想の人たちでした。霊肉二元論と言って、霊魂と肉体は別々なもので、肉体は滅んでも、霊魂は生き続けるという考えでした。その考えによるならば、人間には、罪はあるけれども、それは肉体を持っていた時だけの話であって、肉体が滅んだら、霊魂は罪がないというのです。そして、キリストについては、キリストが人となられて来られたことも、十字架にかかって私たちを罪から救われたことも、否定しました。
 このヨハネが書き送った手紙から知ることは、当時のキリスト教会は、このグノーシス主義、霊肉二元論との闘いであった、ということです。ヨハネの手紙一1章1節にはこのような言葉が書かれていました。
1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。
 「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」とあります。これは何のことを言っているのかというと、イエスさまは、確かに人としておいでになった、ということです。二千年前に、確かに人としておいでになり、人々に福音をお語りになり、人々の前に表れ、人々に触れてくださった方なのだ、と言っているのです。
 8、9節をお読みします。
1:8 気をつけて、わたしたちが努力して得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい。1:9 だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません。その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます。
 「気をつけて」とあり、「キリストの教えを越えて、これにとどまらない者」とあります。私たちは、キリストの教えを越えてはならないのです。キリストの教えに留まるように、いつも気をつけていなければならないのです。
 ところで、8節には、「わたしたちが努力して得たものを失うことなく」とありました。「努力して得たもの」というと、これはキリスト教信仰とは違うのではないか?と考える方があるかもしれません。確かに、私たちの努力によって、救いを得るということはありません。この「わたしたちが努力して得たものを失うことなく」という言葉をリビングバイブルという聖書の意味を分かりやすく訳した聖書の訳では、このように書かれていました。「これまでの労苦が水のあわとならないよう」。これらの言葉から考えられるのは、「努力して得たもの」というのは、救いそのもののことが言われているのではなく、救われた者のその後の歩みのことが言われているようです。せっかく、イエスさまの救いにあずかって、ここまで歩んできたのに、その労苦が水の泡になってしまわないように、という意味で考えたらいかがでしょうか。
 一方、救いと努力ということは、まったくかけ離れたことではありません。フィリピの信徒への手紙2章12節には、このような言葉が書かれています。
2:12 だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。
 ここには、「自分の救いを達成するように努めなさい」と書かれています。救いと努力、どう理解したらよいのでしょうか?ここには、救われるように努めなさい、とは書かれていませんが、「自分の救いを達成するように」とあります。私たちは、イエスさまを信じた今、救いにあずかっているのです。けれども、その救いを達成するように、というのです。これはどういうことかというと、私たちは、イエスさまによって罪から救っていただいた。しかし、そこで完成、そこで終わりではないのです。救いをいただいた者は、今度は、救われた者としてどう生きるか、という段階に入って行くのです。救われた者としてどう生きるか?それは、聖書から聴いていくのです。神さまが私たちに求められていることは何か。先日の『聖書教育』でも学びました。旧約聖書・アモス書5章6節に「主を求めよ、そして生きよ」とありました。神さまご自身を求めるのです。神さまのみ心は何ですか?と尋ねながら、神さまの言葉に聴きながら生きるのです。それが、「自分の救いを達成するように努めなさい」ということです。

(むすび)
 今日の聖書の言葉に戻ります。12節をお読みします。
1:12 あなたがたに書くことはまだいろいろありますが、紙とインクで書こうとは思いません。わたしたちの喜びが満ちあふれるように、あなたがたのところに行って親しく話し合いたいものです。
「紙とインクで書こうとは思いません」というのは、もうあなたがたに手紙を書くのは止めた!ということではありません。この後には、「わたしたちの喜びが満ちあふれるように、あなたがたのところに行って親しく話し合いたいものです」という言葉が続いています。私たちは、この数年の間、コロナ禍にあって、お互いが顔と顔を合わせて話し合うことや交わりを持つことができないでいました。今年は、一階の部屋もずいぶんときれいに整えられました。その部屋を会場にして、先月は、秋祭りを行い、多くの人たちをお迎えすることができました。このようにして、今、私たちの教会は、お互いが顔と顔を合わせる機会を持つことができるようになりました。本当に嬉しいことです。ヨハネは、「わたしたちの喜びが満ちあふれるように、あなたがたのところに行って親しく話し合いたいものです」と書いていますが、手紙の送り手である教会の人たちの一人一人の顔を思い浮かべながら、みんなと直接、会って、神さまの恵みを、救いの喜びを分かち合いたいと願っていたのでしょう。私は、このヨハネの言葉は、ヨハネ自身の願いであり、祈りであったと思います。私たちもこのことを願いとしていきたい、祈りとしていきたいと思います。お互いが、神さまからの「豊かな報いを受けるように」、祈り合い、分かち合い、歩んでまいりましょう。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
あなたがお送りくださったお方、救い主イエス・キリストは、今も生きて、私たちと共におられます。私たちは、いつもあなたに対して、心を開き、今、今日新しく、あなたの言葉を聴いて歩む者としてください。また、コロナ禍では持てなかった顔と顔を合わせての交わり、話し合いを今、持つことができるようになりました。どうか、「わたしたちの喜びが満ちあふれるように」とヨハネが言ったように、私たちも救いの喜びを人々と分かち合うことを導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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