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【礼拝説教】2021年2月14日「共に生きるということ」

2021年 2月14日(朝・夕)礼拝説教「共に生きるということ」マルコによる福音書10章1~12節

聖書―マルコによる福音書10章1~12節
(はじめに)
「律法に適っているでしょうか?」。イエスさまのところにやって来たファリサイ派の人々がイエスさまに質問した時の言葉です。律法に適っているでしょうか?というのは、神さまの教えに適っていますか?ということです。私たちは神さまの教えをどこから知るでしょうか。皆さんはすぐに答えることができるかもしれません。神さまの教え、それは聖書から知ります。聖書から、神さまの教えを知り、私たちがどのように歩んだらよいのかを聴くのです。

(聖書から)
今日の聖書の言葉、1、2節をお読みします。
10:1 イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。10:2 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。
ファリサイ派の人々はイエスさまに「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と質問しました。夫が妻を離縁すること、それは神さまの教えに適っているでしょうか?この質問をした人たちについて、「イエスを試そうとした」と書いてあります。試す、とありますが、彼らはイエスさまを信頼して、イエスさまから教えていただこうと考えて質問したわけではありませんでした。いったい、この人はどのように答えるのだろうか?とイエスさまを試すつもりで質問したのです。
それに対して、イエスさまはどうされたでしょうか。3節をご覧いただきますと、「イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された」とあります。質問したファリサイ派の人々にイエスさまは逆に問い返した、というのです。イエスさまは「モーセはあなたたちに何と命じたか」と言われました。ここでいう「モーセ」というのは、モーセの律法ということです。モーセはシナイ山で神さまから律法を受けました。あなたがたは律法のことについては詳しいだろう。その律法には、神さまの教えには何と書いてあるか?と言われたのです。
すると、問い返されたファリサイ派の人々はイエスさまにこのように答えています。「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」(4節)。これは旧約聖書・申命記24章1~4節に書いてあることです。そこに書かれていることから彼らは答えました。それを聞いたイエスさまはこのように言われました。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」(5節)。律法では、神さまの教えでは、夫が妻を離縁してもよいと、書いています、と答えたファリサイ派の人々に対して、イエスさまは「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」と言われました。
「あなたたちの心が頑固なので」。これはどういう意味でしょうか。心が頑固。頑固な人というと、人から何を言われても、自分の考えを変えようとしない、曲げることをしない。そういう人のことを言います。イエスさまがここで言われたのは、あなたたちは神さまに対して、心が頑固だ、と言われたのです。神さまが言われた言葉を聴こうとしない、受け入れようとしない。そして、自分の考えを変えることもしない。
考えてみますと、これはファリサイ派の人たちのことだけではないことに気づかされるのではないでしょうか。私たちも時に神さまに対して、頑固なのではないでしょうか。神さまを信じていると言いながら、神さまの言葉を聴いても、それによって、自分の考え、思いを変えることはしない。自分が納得できることとか、自分にとって都合のよい話は聴くけれども、自分の考えや生き方を問うような、変えるような話を聞くと、それは受け入れようとしない・・・。私たちも神さまに対して、心が頑固な者なのではないでしょうか。
イエスさまは、あなたたちの心が頑固なので、離縁状を書いて離縁することを許したのだ、と言われました。そして、続いてこのように言われました。
10:6 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。10:7 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、10:8 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。10:9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
これは教会で行う結婚式の中で司式者によって、よく読まれる聖書の言葉です。ここから知らされることは、結婚というのは、人格と人格の出会い、そして、人格と人格が共に生きるということです。ここに「二人は一体となる」とありました。「一体」という言葉は別の訳では「一つの身」(岩波訳)、「一つの肉」(田川訳)とも訳されます。今日の箇所では、ファリサイ派の人々の離縁についての問いから話が始まっているので、イエスさまは結婚ということを聖書からお示しになりましたが、結婚ということだけでなく、人と人が共に生きるということについても、ここから聴くことができます。
教会について考えますと、教会について、聖書は「教会はキリストの体」(エフェソ1章23節)、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分」(一コリント12章27節)と書いています。そして、先ほどお読みしましたように、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。これは結婚のことについて言われている言葉ですが、教会についてもいうことができます。神さまは私たちを出会わせてくださいました。私たちは互いに人間的な弱さを抱えた者、罪人です。そういう私たちですが、自分が神さまに赦されて生かされているように、その赦しの恵みを受け止めながら、互いに赦し、赦され、生きるのです。
10節以下をご覧いただきますと、イエスさまとファリサイ派の人々のやり取りをイエスさまの弟子たちは聞いていて、そのことについて、イエスさまに質問しています。私はこの時の弟子たちの態度、姿勢は大事だと思いました。というのは、弟子たちは他人事として聞いていたのではなかったのです。自分たちの問題として聞いていたから、イエスさまに質問したのでしょう。
イエスさまはこのように言われました。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる」(11、12節)。ファリサイ派の人々の質問はどのようなものであったかと言いますと、夫が妻を離縁してもよいのか?という質問でした。つまり、夫の立場からの話でした。そこには、妻が夫を離縁してもよいのか?ということはまったく考えられていませんでした。当時、男性優位の社会にあって、結婚、離婚、このようなことについても夫の側に圧倒的に権限がありました。しかし、イエスさまが言われたことは、妻の側にも配慮した内容であったことが分かります。妻が夫に対して罪を犯す、ということはあっても、「妻に対して姦通の罪を犯すことになる」。つまり、夫が妻に対して罪を犯す。こういう考えは当時のユダヤの社会にはありませんでした。夫と妻、また様々な人間関係がありますが、互いが対等な人格であり、支配するとか、支配されるという関係ではないということをイエスさまは示されたのです。

(むすび)
イエスさまは創世記の言葉を引用され、夫と妻の話をされました。創世記2章18節にはこのようなことが書かれています。
2:18 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
神さまが最初の人アダムのために、エバと出会わせようとされる場面です。ここに「彼に合う助ける者」とあります。口語訳聖書では「彼のために、ふさわしい助け手」とありました。「彼のために」とか「ふさわしい」というと、アダム、男性のためにふさわしいということで、男性優位のように思え、対等ではない感じがしますが、別な訳では「彼と向き合うような助け手」(岩波訳)と訳されています。私たち人間は互いに向き合う存在として造られたのです。夫と妻、またいろいろな人間関係がありますが、それは人格と人格が向き合う関係です。今日の説教題は「共に生きるということ」としましたが、私たちは、神さまと向き合う。そして、人と向き合う。そのようにして共に生きていく者であることをおぼえたいと思います。

祈り
恵み深い主なる神さま
ファリサイ派の人々のイエスさまへの問い、それは自分の立場、自分の側からだけの考えからの問いでした。律法をそのようにして読む時、律法を、自分を正当化するため、そして、他者を裁くための道具としてしまいます。私たちは聖書をどのように読んでいるでしょうか?私たちも聖書を今日の聖書の箇所のファリサイ派の人々のように、自分を正当化するため、他者を裁くための道具にするようなことがありませんように。
私たちは神さまの前に心が頑固な者です。そのことを認め、私たちの心が神さまの愛と恵みによって打ち砕かれ、神さまの言葉に聴く、神さまの言葉に生きる者としてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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