キリストの苦しみにあずかる(フィリピ3章1〜11節)
フィリピの信徒への手紙3章9節に「キリストの内にいる者と認められるため」とあります。私はキリストの内にある者。口語訳では「キリストのうちに自分を見いだすようになるため」となっています。キリストの内にある。そのことを信じて生きる時、そこで本当の自分を見出すことができるのです。損得勘定をはるかに超えた神様の恵みを知らされます。神様に命与えられ、神様に見出された私。このことが今の私の生きる力であり、支えです。
本当の利得、利益はキリストにあることをマタイによる福音書16章24〜26節の言葉が示しています。
「それから、弟子たちに言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか』」(マタイ16章24〜26節)。
神様に与えられた命を喜び、感謝し、キリストの苦しみにあずかる者として歩みましょう。キリストの苦しみにあずかる。それはキリストの体である教会の働きを担うことであり、他者の重荷を担うことです。それらいっさいを通して神様の愛と義が表されますように。
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