そのままで主のもとへ(マタイ6章1〜18節)
私たちの信じる神様は「隠れたことを見ておられる」(4、6、18節)、「隠れたところにおられる」(6、18節)神様です。隠れたこと、隠れたところ、そこは人には見せられない部分、人には隠したいと思う部分です。主は私たちのすべてをご存じです。それにもかかわらず、表すところと隠すところを併せ持つ私たちです。しかし、人には隠せても、神様には隠せないのです。主は私たちの心の中、隠してしまいたいと思うところまで問われます。表面的な信仰、うわべだけの信仰に対して厳しく問いかけられるのです。また信仰は人に自分を良く見せるとか、良い評価を得るためのものではありません。神様に対してのものなのです。
主は「偽善者」(2、5、16節)という言葉を使われました。この言葉は演技、ふりをする、と言った意味があります。私たちは信仰深いと思われるような演技をするのです。でも、それは本物ではありません。本当のその人の姿ではないのです。私たちはいい人とだれもが思われたいのですが、いい人を演じているだけなのです。そして、そのうち、それを演じきれなくなり、きつくなってくる・・・。
ありのままの弱い、不完全なあなたでいい!そのあなたのままで私のもとに来なさい!これが主の招きなのです。信仰深くなくては、立派でなくては受け入れてもらえない。そういう神様ではありません。どんなあなたでも、私はあなたを愛している!そう言ってくださる神様なのです。その神様のもとに行きましょう。神様が私たちを新しく生きる者としてくださいますから。
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