幼子から成人へ(一コリント13章1〜13節)
11節に「幼子」という言葉が出てきました。これはイエス様が子供たちを私のもとに来させなさいと言われた(マタイ19章13〜15節参照)のとは違い、否定的な意味で言われています。霊的な幼子、信仰のうえでの幼子ということです。子供について、否定的なことで言いますと、自分中心です。自分のことしか考えられない。自分のことしか見えていない。それが成長していく中で視野が広がっていきます。人のことも考えられるようになる、思いやることができるようになる。自分中心から人のために、という思いになっていく。これは信仰の面でも同じです。
幼子から成人へ。まず、私たちは自分が幼子であるということを認めなければなりません。神様の前に私は幼子です。何も持たない、無力な、そして、自己中心の罪深い私であることを認めなければならないのです。けれども、そういう私をそのままに愛し、共に歩んでくださり、神様の愛に生きよ、と言ってくださるイエス様。そのイエス様を喜び、感謝して歩むのです。幼子が成人となるのは自分の努力、頑張りによるのではありません。神様の愛が、神様ご自身が私たちを一歩一歩、一日一日成長させてくださいます。
12節にありますように、やがて、すべてがはっきりと知らされる日が来ます。これは終わりの日のことを示していると思いますが、それまで私たちは世のただ中で生きる者です。神様の愛によって成長させられることを喜びながら、感謝しながら、主の愛を見つめて、主の愛に従って生きる者でありたいと思うのです。「最も大いなるもの」(13節)、それは神様の愛です。すべての者に命を与え、すべての者を生かす神様の愛に生かされている私たちはこの愛をみんなと分かち合っていきたいと思います。
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