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礼拝は私たちを生かすためのもの(マルコ2章23〜28節)

 主は「安息日は、人のために定められた」(マルコ2章27節)と言われました。このことに関連して、旧約聖書の十戒の安息日について書いてある箇所があります。出エジプト記20章8〜10節と申命記5章12〜15節です。出エジプト記では「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト20章11節)。とあり、申命記では「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」(申命記5章15節)とあります。出エジプト記には神様の創造のみわざを思い起こして感謝すること、申命記にはイスラエルの民がエジプトから救い出されたこと、これは私たちにとっては罪から救い出されたことを思い起こして感謝するということになるでしょう。安息日、そして、私たちにとっての主の日の礼拝、それは神様の恵みを思い起こす日、時なのです。
 私たちの教会の今年度の年度聖句は詩編103編2節です。「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」。新改訳聖書も分かりやすく訳されています。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」。主の日、それは神様が私たちになさった恵みを感謝する日です。神様の恵みを思い起こしましょう。神様は私たちを愛しておられる、私たちをかけがえのない存在としておられる。そのことを思い起こしていくとき、私は今日も生きていくことができる、やっていける。主が私と共におられるから、主が私を愛しておられるから大丈夫。礼拝は、教会生活は、人を生かすためにある、私たちに生きる力を与えるものなのです。

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