分かっただけのイエス様を(ヨハネ1章1〜18節)
西南学院の学長などを歴任された先生でギャロット先生という方がいらっしゃいました。この先生が説教の中でよく語られていた言葉が「分かっただけのイエス様に、分かっただけの自分を献げなさい」ということだったそうです。イエス様を宣べ伝えましょう!教会ではそのように言いますけれど、私たちはなかなかそうできないでいるのが現状かもしれません。まず、私たち自身が日々、イエス様に出会っていきたいと思うのです。言であり、命であり、光であるイエス様に出会っていく。自分が分かっただけでいいのです。その分かっただけのイエス様をみんなに紹介していくのです。
聖書は人生を導く地図であると言われます。それではイエス様はどんな方でしょうか?みなさん、この地図によく従って歩みなさい!その地図だけをポンと私たちに渡して、天国から私たちを眺めている方なのでしょうか?私はそうではないと思います。イエス様は私たちと一緒に地図を開いて、この道を、あの道をどう行こうか?私たちと一緒に考え、一緒に苦労しながら歩んでくださる方だと思います。一緒に笑い、一緒に泣きながら、あの時はこうだったね、ああだったね、と語り合いながら歩んでくださる方だと思っています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(14節)とありましたが、これはそういうことではないでしょうか?まず、イエス様をお伝えする私たち自身がもっともっと身近にイエス様を感じて、知っていきたいと思います。そして、分かっただけのイエス様をお伝えしましょう。
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