信仰の父?(創世記12章10〜20節)
アブラム(後のアブラハム)は神様からの語りかけを受け、生まれ故郷、父の家を離れて旅立ちます(1、4節)。神様の言葉を頼りに決断した姿はまさに「信仰の父」と言われる人物だと思えます。ところが、旅立って間もなく、滞在地が飢饉に遭い、エジプトへ下ります。そこでアブラムは自分たちの生活の潤うことのため、また自分の保身のため、妻サライを自分の妹であると偽る過ちを犯します。サライはファラオの妻として召し入れられようとするその時、ファラオと宮廷の人々の間に恐ろしい病が起こり、そのことを通して、ファラオは真実を知り、アブラムと妻サライ、そして、すべての持ち物をエジプトから追い出します。アブラムとサライ、彼らは後に多くの国民の父、また多くの国民の母となる人たちでした。神様はご自分のために、ご自分の救いのご計画のために彼らが罪に陥って、信仰の旅路を中断してしまうようなことがないように、彼らの罪を示し、立ち直らせて、再び歩みを始めさせたのでした。そして、今、私たちも救いのご計画の中にある一人一人です。神様は私たちのこともアブラムやサライのように、救いのご計画を担わされた大切な一人一人として扱っておられます。そういう私たちですが、神様から離れ、自分勝手に歩もうとしてしまう時、神様の厳しい語りかけや戒めがあるかもしれません。しかし、それは神様が私たちを信仰の旅路に歩ませるための訓練であることをおぼえたいと思います。私たちの歩みの一つ一つを神様の言葉に尋ねながら、祈りつつ、聴きながら、共にこの信仰の旅路を歩んでまいりましょう。アブラムは「信仰の父」と言われる人物ですが、決して完全無欠な人でなかったことを知ります。ただ神様の恵み、赦しを受けて生きた人、そのことゆえに「信仰の父」と言えると思います。
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